5


 とんでもない嫁が来てしまったものだ。魔術師を彼の部屋まで運ばせ、男と二人で北の塔を出てから、皇帝は自らの行いを深く悔やんでいた。
 そもそも自分が嫁が欲しいなどと言い出さなければ、魔術師がこれほどまでに消耗することもなかった。自分の我が儘で苦しめてしまうくらいなら、一人寝の寂しさくらい我慢しておけば良かった。
 そんな皇帝の心情を察したのか、男が少し居心地悪そうに唸った。
「あー、その、なんだ。俺がアクロワ先生の名前をさっさと出せば良かったんだよ。……悪かったな」
 ばつが悪そうに言う男は、先ほどの自信ありげな様子とは一転して妙に幼く見えた。そういえば年下という条件もつけたのだった、と皇帝は男を見て小さく唸った。相手が年下であるなら、自分から多少は歩み寄ってみせるべきだと思えた。
「謝罪する必要などない。だが、その誠意は受け取ろう……ヴィクトル」
 異国の名前は馴染みが薄く、発音が難しい。呼びやすいソーンツァ帝国風の名前で呼ぶと、彼は少し嬉しそうな表情になった。
「あんたはアレクサンドルだよな。愛称は?」
「愛称で呼ばれるほど親しくなったつもりはない」
 すぐさま表情を凍りつかせ、顔を正面に向ける。
 時刻は深夜、夜明けもそれほど遠くはない。薄暗い廊下の絨毯を踏む静かな足音はぴったり二人分で、他には誰の姿もない。皇帝が手に持つ燭台の灯りが揺らめくのに合わせて、彼らの影が右に左に踊っている。
 ヴィクトルと呼ぶことにした男の部屋をどうするべきか思案して、ふと彼は明日が正妃を発表する期日であることに思い至った。その期日を定め、議会の承認まで取ったのは彼自身だ。
「……」
 彼を、正妃として公表しなければならないのだろうか。この際候補に上がっている女たちから選定することも一瞬考えたが、自らを拷問じみた境遇に落とす趣味はない。やはり男を正妃に据えるのが無難か。思考しながら歩くうちに、二人は皇帝の居室に辿り着いている。
 部屋の前には、どんな時も不動の姿勢で立っているはずの近衛兵の姿すらない。魔術師が術を使って追い払ったままだからだ。その扉を押し開き、皇帝は自ら男を部屋へと案内した。皇帝は代々の伝統は尊重しているものの、あまり華美を好まない。深い色合いでまとめられた調度品が並ぶ室内は、どちらかというと質素だった。
 普段魔術師くらいしか座るもののないソファを男に勧め、皇帝も部屋の燭台に火を移すと向かい合わせに腰を下ろした。男は質のよいソファに背中を凭れかけたが、姿勢は崩れて見えない。腰を落として沈み込むように座る魔術師は、今もまだ青ざめているのだろうか。懸念を振り払い、皇帝は男に低く問いかけた。
「ヴィクトル。急な召喚ではあるが、そなたに余を伴侶とする意思はあるか」
「随分と性急に決めようとするんだな」
 男が薄く微笑みながら目を伏せる。切れ長の目に睫毛がかかり、皇帝はそんな場合ではないと知っていながら男に見とれれた。襟足を短めに切り揃えた黒髪がふちどる輪郭は完璧な左右対象だ。ともすれば彫像のようにも見える顔立ちの中で、意思の強そうな唇が彼の性格を表している。
 彼を観察する皇帝の前でしばらく考えこんでいた男が顔を上げ、じっと皇帝を見据えた。男の視線が皇帝の全身を辿るのを、彼は黙って甘受した。
 男のあたたかな象牙色とは異なり、皇帝の肌は透けるような雪花石膏色をしている。銀に近い金髪や冷たい灰色の瞳と相俟って、冷酷で強引な手腕とは全くそぐわない、雪の中に消えてゆきそうな容姿をしていると言われてきた。どれだけ冷たく切り捨てようと彼に恋い焦がれる者が絶えないのは、水の精霊にたとえられるその容姿が非常に際立ったものだからだ。
 だが、彼は皇帝だ。顔の美醜に関係なく、この帝国の全てが彼のものであった。気にも留めていなかった自らの容姿を男にまじまじと見つめられ、居心地の悪さを覚える。
 ふ、と男が笑った。
「俺は魔術師だ。魔術を信用している。……アレクサンドル、あんたは俺の嫁で、そしてとても綺麗だ」


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