3皇帝は呆然として目の前の男を見つめた。生涯の伴侶になるために召喚された男。そう、彼はどう見ても男だった。ひどく混乱しながらも、皇帝は相手が合意なしに召喚されたことを思い出していた。この男に対して責任を追及すべきではない。 「……余を離せ」 状況がよくわからないが、彼に訊ねるのは筋違いだろうと皇帝は判断した。召喚術が何故こうなってしまったのか、魔術師に確認しなければならない。 皇帝はとりあえず男の肩を押し、体勢を立て直そうとした。 「いいぜ。ほら」 「……っ!」 それに合わせたように男が半歩後ろに下がり、支えを失った皇帝が今度は男の胸に向かって倒れ込んだ。予想外の行動と衝撃に虚を突かれた皇帝の腰に、すかさず男の腕が回される。 「おっと、危ない」 「なっ……」 「貴ッ様ァ、陛下に何を!」 何をする、と皇帝が言うより早く男が一歩前へ出る。そのすぐ後ろを前を鋭いものがよぎった。ドォン、と大きな音を立てて壁に刺さったのは巨大な氷柱だ。魔術師が攻撃を皇帝に当てるはずがないとはわかっているが、それでも間近で行使された魔術に血の気が引いた。 「陛下を離せ!」 魔術師の声と共に幾つもの破壊音が響き渡る。その度に男はじっと皇帝を見つめたままひょいひょいと避けて見せた。 「あ、俺より少し背が高いか? でも腰は細いな……すごく好みだ」 「ひっ」 掌の熱を伝えるように撫でられ、腰がびくりと跳ねる。飄々とした態度を取っている男の黒い双眸に明らかな欲望を感じて、皇帝は恐怖を覚えた。顔を背けようにも片手で頬を抑えられて動けない。その親指がそっと彼の唇をなぞるに至って、皇帝は背筋を震わせて魔術師の名を叫んだ。 「イ、イヴァン!」 「陛下!」 皇帝の頬を撫でていた男の手が離れ、魔術師の声がしたあたりで幾つもの氷柱が砕ける音が続く。身体をよじってそちらを見ると、男の翳した手の先で魔術師の放つ氷が次々と粉砕されていた。魔術師が生み出した氷の鶫たちが氷柱の合間を縫って飛びかかる。それらも男の指先ひと振りで粉々になって床に散らばっていく。目を疑うような光景だった。 「馬鹿な」 思わず男を見やる。彼は彫像のような美しい顔にうっすらと微笑みを浮かべたまま、帝国で最も強いはずの魔術師の攻撃を片手だけで防いでいるのだった。 「鶫か。あんた、イヴァン・ソロ何とかってやつか?」 「ソロヴィヨーフだ!」 鶫の数が一気に膨れ上がった。高い天井までを埋め尽くす数の小鳥たちが一斉に羽ばたく。だがそれよりも、怒りを露わにする魔術師の顔色が紙のように白いことが皇帝の気にかかった。召喚術は彼にとって大きな負担だったはずだ。これ以上魔術を行使させたくはない。 「そう、それだ。じゃああんたは俺の先輩だな。逃げはしないから一旦やめようぜ」 「ならまず陛下を離せ!」 「そのお願いは聞けねえなぁ」 男は相変わらず余裕の表情で笑いながら魔術師をあしらっている。皇帝は躊躇った後、男の着ている黒い軍服らしきものの襟を引いた。 「ん? どうした?」 「あやつの言う通りにしてくれ。……頼む」 最後の一言は囁くような小声だった。若くして皇帝として即位してから十年、誰にも頭を下げたことはない。つらい時期を共に乗り越えた魔術師のためであろうと、自尊心を曲げるのは苦しかった。 唇を噛み締めて顔を背けた皇帝の姿に何を思ったか、男が彼の腰から腕を離した。 「嫁さんの頼みなら仕方ないな」 甘く微笑む男の背後で小鳥たちが失速して消えてゆく。男の肩越しに、崩れ落ちた魔術師が床に手をつくのが見えた。 |
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