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 満月までの二週間を、皇帝は今か今かと待ちかねていた。
 魔術師の承諾が取れた翌日には、臣下たちに新たな正妃を娶るつもりがあることを発表している。既に選定に入っているとして、正妃を発表する期日を明日に定めた。
 当然のことながら、臣下を含む貴族たちはこの発表に揺れた。果たして誰が選ばれるものか互いの腹を探り合い、それに伴って女性たちが我先にと皇帝に対しての主張を激しくした。皇帝の寝所にまで押し掛けようとする女たちを追い払うため、身の回りに配備する近衛兵を増員しなければならなかったほどだ。予測していたことながら正直辟易した。だがこれもすべて、議会による事前の承認を得ることによって、召喚される嫁をつつがなく娶るためだ。
 皇帝といえども一人寝は寂しいものだ。それも今夜までだと思うと、どうしても気がはやる。彼は執務を終えて戻ってきた自室で正装に着替え、椅子にかけて歴史書を捲っては、そわそわと何度も時計を確認した。歴史書の内容など全く頭に入ってこないが、どうせ何度も読んだものだ。
「陛下、準備が整いました」
 人の気配と共に声をかけられ、皇帝は弾かれたように顔を上げた。どこからともなく現れた魔術師が、疲れきった様子で目の前に佇んでいる。
「うむ」
 期待と、それを押し隠そうとする気持ちがせめぎ合った結果、皇帝は冷ややかな無表情で頷いた。
「ご安心ください、きっと陛下にぴったりの方を召喚いたします」
「任せる」
 安楽椅子から立ち上がり、先導する魔術師に続いて皇帝は北の塔へと向かった。長い廊下を進む間、あれほどまでに煩わしくつきまとってきた貴族や女たちの姿は全くなかった。皇帝以外の前には姿を現さないことで知られている魔術師が、何らかの術で人払いをしているのがわかる。
 北の塔はこの魔術師一人に与えられている。帝国随一の実力を持つ男の根城には様々な素材や器具が置かれており、皇帝はそれらを興味深く眺めながら塔を登っていった。
「こちらでございます、陛下」
 案内されたのは塔の頂上だ。扉をくぐってすぐに、魔術師が結界を張った。外部から邪魔されないためだ。
 塔の最上階に来るのは皇帝も初めてだった。吹き抜けになっている天井の真上で巨大な月が輝いている。そのすぐ下の床には、複雑な紋様で魔法陣が幾重にも刻まれていた。
「陛下、この陣の中央に立ち、わたくしが指示しましたら、目を閉じて望む者の条件を好きなだけ仰ってください。どんな贅沢を言っても構いません。わたくしの術は必ずや陛下の条件に見合う者を探し出し、この世界中に居なければ異世界からでも陛下の元へと召喚するでしょう」
「わかった」
 皇帝は緊張のためにごく短く答えると、言われた通り陣の中央に立った。すぐさま魔術師が彼にはわからない言語での詠唱を始める。普段ならどんな高度な魔術も何も唱えずに軽々使って見せる魔術師が、これほど長い呪文を必要とすることに皇帝は驚いた。それだけ難しい術であるということだ。
 終わりがないように思えた呪文が続き、魔術師の額には汗が滴り落ちる。皇帝の立つ魔法陣が徐々に淡く光を放ち始めた。それは頭上にある月と同じ色に輝いている。
 やがて魔術師が詠唱を止め、皇帝を見た。彼の意図を察して頷き、皇帝は目を閉じた。
「余は、生涯を共にしてくれる伴侶を望んでおる。何の政治的なしがらみも持たない者に限る。跡継ぎもこれ以上は要らぬ。身ごもることがなく、余を生涯愛してくれる者がよい。自立心に溢れ、知識と教養、そして余の治世を支える資質を持ち、二人の王子たちを分け隔てなく愛さねばならぬ」
 言い終えて、皇帝は魔術師を見やった。魔術師は黙ったまま、まだ続けなくてもよいのかと言わんばかりに首を傾げた。少しばかり迷ったが、皇帝は再び目を閉じて言葉を続けることにした。
「先立つことがないように、余よりは少しばかり年下の者がよい。容姿は美しいほどよいだろう。黒い髪に黒い瞳が好ましい。背丈は余を超さないくらいが好みだ。前向きではっきりしている方がよく、少しくらい気性が強くとも構わぬ。……そうだな、余が心を許し、疲れた時には寄りかかれるような存在に、余の傍らにあって欲しいのだ」
 これ以上望むことなどない。皇帝が穏やかな表情で締めくくると、魔術師が詠唱を再開した。既に皇帝の中から焦る気持ちはすっかりなくなっていた。月の明かりを受け、皇帝の伏せられた睫毛がきらきらと輝いている。次に目を開ける時は、生涯の伴侶を見つめる時だ。
 長い、長い詠唱はやがて途切れ、魔法陣に溢れんばかりに注がれた強い魔力を感じて皇帝は目を閉じる力をますます強める。直後、カッ、と足下から目を閉じていても眩しいほどの光が放たれた。
「……っ!」
 あまりの眩しさに思わず両腕で顔を覆う。体勢を崩して倒れかけた皇帝の身体を、何者かが抱き留めた。魔術師だ、と皇帝は思った。
「へ、いか」
 魔術師の声が妙に遠い。まだ瞼の裏にはあの光が焼き付いているようだったが、皇帝は身体を支えられたままゆっくりと目を見開いた。
 眩しさから一転して、周囲は夜の暗さを取り戻している。霞む視界に、見慣れない人影が映っていた。魔術師ではない。何度かまばたきを繰り返すと、次第にはっきりと見えてくる。皇帝はそこそこ恵まれた体格をしているし、当然ながら体格に見合った重さがある。それを支えて揺らぎもしないとはどういうことだ。まさか。まさか。
「へえ……あんたが俺の嫁さんか」
 囁かれた声に、皇帝は全身を硬直させた。目の前には黒い髪と黒い瞳を持つ美しい顔が見える。その肩の向こうで、顔色を蒼白にした魔術師が跪いている。
「これからよろしく、俺の嫁さん」
 呆然とする皇帝の唇に軽くくちづけ、美しい男が微笑んだ。


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