3


 ひとしきり泣いた後、俺は生徒会室備え付けの給湯室で顔を洗い、自分のデスクに向かった。夜明けに目が覚めたので、溜まっていた仕事を片付けにきた。そういうことになっているからだ。
 一時間ほどかけて幾つか仕上げたが、やはりショックが尾を引いているのだろう。普段より格段に処理するペースが落ちているのが明確だった。夜は白々と明け、後ろにある窓から青みがかった光が射し込んできている。
 俺はこれ以上無理をしないことに決め、仮眠室で横になった。仮眠室は普段それほど使われるものではない。毎週一度清掃が入る度に交換されるリネンから、今日は知っている匂いがした。香水の香り。会計がいつもつけている、少し甘い百合の香りだ。途端、胸が刺すように痛んだ。
 また涙がこみ上げそうになって、俺は潤んで歪む天井を見上げて笑った。自嘲と、自戒の笑みだった。
 なあ、お前はいつからそんなに涙もろくなった? あんなこと、何でもないはずだ。自分が誰なのか忘れるな。お前は人の上に立ち、一切の揺らぎを見せず、正しい選択をしなければならない。今するべきことは、休息をとり、普段通りの生徒会長に戻ることだ。大丈夫。あんなことは何でもない。大したことじゃない。傷ついてなんか、いないんだ。
 そうやって何度も自分に言い聞かせ、俺は目を閉じた。その拍子に目尻からこめかみに熱いものがひと筋伝ったが、涙はそれ以上零れなかった。

 俺はちゃんとやれた。いつも通りの生徒会長になることができた。
 あれから、始業前に生徒会室にやってきた副会長と鉢合わせ、普段通りの会話をを交わした。副会長は何をするにも朝方のほうが効率が上がるタイプで、だから頻繁に早朝の生徒会室に顔を出す。俺も俺で、時々早く目を覚ました時は生徒会室で仕事をするようにしていた。つまり、こうして俺が朝の生徒会室で副会長と遭遇するのは、普段と変わらないことだというわけだ。
 案の定副会長は俺の様子を怪しむこともなく、俺と一緒にしばらく役員としての作業を行った。それからいつものように連れ立って教室に入り、生徒たちの歓声を浴びながら席についた。俺はまだ疲労を引きずっていたし、幾ら男の声でもワントーン高い黄色い声が頭に響いていたが、何事もなかったように授業を受けることができた。それから親衛隊を交えて昼食をとり、放課後はまた生徒たちに騒がれながら生徒会室へと向かった。普段と全く変わらない、よくある日常の風景だ。
 書記が誰より早く来ているのも、副会長がすぐさま給湯室へ向かうのも、会計が彼の親衛隊をはべらせてへらへら笑いながらやってくるのも、全ていつも通りだ。俺はちゃんとできた。全く違和感なく生徒会長をやれた。そのはずだ。
 なのに、俺はどうしても会計の目を見て笑えなかった。彼のあの、色気を感じさせつつも同時に屈託のないような笑顔を、正面から受け止められなかった。
「ごめーん、遅れちゃったぁ。みんなお疲れさまー」
 大して悪びれずに言う会計はいつも通りだったのに、視線を合わせられない。
「……ったく、仕方ねぇな。ほら、始めるぞ」
「はーい……」
 やや伏し目がちに返事した俺を、会計が少しだけ不思議そうに見つめていた。


Prev | Next

Novel Top

Back to Index