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「はあ……」
 この学園には年間を通して様々な行事がある。四月の新入生歓迎会から始まり、球技大会、夏の合宿、体育祭、学園祭、それから合唱コンクールと、枚挙に暇がない。それらを運営するのは面倒である反面、俺にとっては楽しみのひとつでもある。自ら手がけた行事がつつがなく執り行われた時の達成感が素晴らしいからだ。
 書記以外の俺たち生徒会役員は、今日もそうした行事の準備のため、生徒会室で業務に取り組んでいた。ちなみに書記が居ないのは部活の大会が近いからだ。
「会長、どうぞ」
「ああ、悪いな」
 副会長がいつものどうでもよさそうな顔でココアを俺のデスクに置く。こいつはいつでも何に対しても興味がなさそうな顔をしているが、その割には手のあいた時に雑談をしてきたり飲み物を配ってくれたりするので、きっとたまたまそういう顔に生まれついたのだろうと思う。
「はあぁ……」
 手元の書類に走らせていたペンを止め、湯気を上げるココアをじっと眺めた。俺は猫舌なのだが、至近距離から甘い香りが漂ってくるとそれが気になってたまらない。何しろ、俺の居た国にはそもそも甘い飲み物というものが存在しなかったから、俺からするとこのココアという飲料は奇跡の賜物なのだ。
 ココアの入ったマグカップに手を伸ばしかけ、俺はぐっと堪えた。毎度毎度火傷しかけてしまうからいい加減学習しなければならない。いくらココアがこれ以上ないというほど甘く香ばしい香りを放っていたとしても、いくら立ちのぼる湯気とダークブラウンの色味が魅力的に見えたとしてもだ。
「はあああぁ……」
「うるせえ」
 ココアに集中していた俺は、本日何度目になるかわからない会計のため息に思考を遮られ、片方の眉を跳ね上げて奴を睨んだ。
「だってぇ、かいちょーが構ってくれないんだもん。俺がこーんなに深刻そうなため息ついちゃってるのに気にならないの〜?」
「気になるわけねえだろ。俺はココアが飲みてえんだよ」
 思わず漏れた本音には気づかなかったのか、会計が不満げに頬を膨らませる。
「もーっ、何があったか訊いてよかいちょー」
「はいはい何があったんだよ」
 言い捨てて、俺はそっとマグカップを両手で持ち上げた。うん、湯気がすごい。まだ飲めないか。飲めないよな。いや、でも息を吹きかけて冷ませば少しくらいならいけるんじゃないだろうか。表面は空気に接しているから冷めやすいはずだしな。
「俺ねえ、前に一回か二回寝ただけの子になーんかつきまとわれてるっぽくて〜、ちょっと気味悪くってさぁ」
 ふうふうとココアに息を吹きかける。よし、いける。湯気も少し減った気がするし、一口くらいならいけるはず。
「かいちょーだって俺と同じように遊んでんだからわかるでしょ〜? 一回や二回寝たくらいで付き合って当然みたいな顔されちゃ堪んないよね、ねっ」
 そっとカップに唇を寄せる。ふわりと湯気が触れる。傾けたそこからゆっくりと甘い甘い液体が、
「うわっちィ!」
 痛みに肩が竦む。俺は舌先に負った火傷で涙目になりつつも、丁寧にマグカップをデスクへ置いた。慌て過ぎてうっかり零しては飲めないからな。
 それから俺は静かに瞑目して自らの行いを振り返った。またやってしまった。ココアで火傷するのはもう何度目だろうか。あれほど気をつけようと心に決めていたのに、俺には学習能力というものがないのか。……今の言い方は少しユーリを彷彿とさせるな。ともかく、次こそはココアを飲む際に火傷をしないように心掛けるべきだ。
「かいちょぉ! さっきからぜんっぜん聞いてないじゃーん!」
「……あ? どうした」
 喋るだけで舌が痛むので返答ひとつするにも眉間に皺が寄る。俺が視線を向けた先では、会計が今日一番不満そうな顔でぶすくれており、そして副会長が相変わらずの無表情で俺を凝視していた。
 会計が奇怪な行動をとるのはいつものことだが、副会長はどうしたのか。
「何だ」
 問い掛けると、副会長がほんの僅か微笑みらしきものを浮かべて言った。
「毎回懲りないで舌を火傷するのが趣味な会長も、いい加減壁に向かって話した方が建設的な会計も、見ていて面白いですが、面白さでは書類は消せません。そろそろ仕事してください」
「はい」
「はい」
 部活動を終えてようやく顔を出した書記が不思議そうに首を傾げるまで、生徒会室では誰もが無言で仕事をし続けていた。


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