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 初対面の相手に挨拶をする際に尻を揉んではいけないということを知ったのはつい先ほどのことだ。俺は何とも思っていない振りを装いつつも、その件について悶々としていた。
 何故尻を揉んではいけないのか。こちらの文化ではそういうことになっているとは理解した。だが、感情ではなかなか納得できない。尻だぞ? 挨拶の時に揉まないならいつ揉むんだ。
 謎は謎のままで放っておきたい気持ちもあったが、俺は俺を拾ってくれたカズマの期待に応えるためにも、この世界の常識を身につけなければならない。
 俺は散々俺を罵ってからようやく去っていった風紀委員長に対する愚痴を装い、さり気なく会計からこの世界での一般的な挨拶の方法を聞き出すことにした。
「ったくよー、尻を揉んで何が悪い。減るもんじゃあるまいし。あんなの挨拶だろ挨拶」
「何言ってんのかいちょー。ふつーは握手でしょー握手」
 アクシュ? アクシュとは何だ。
 聞き慣れない単語に困惑するが、流石に聞いた傍から国語辞典を引いたりしては怪しまれる。
 俺は精々ふてぶてしい態度を装い、ハンと鼻を鳴らした。
「てめえはすんのかよ」
「えーかいちょ、流石にそれはなくないー? 俺だって握手くらいはするよー、ねっ、副かいちょ」
「そうでしたっけ」
 会計が話を副会長に振る。良くやった。挨拶は一人ではできないからな。どうにか誘導して、このまま実演させてやる。
「いーや、お前初日から今までしてねえだろ。あいつだってそうでしたっけとか言ってんじゃねえか」
 あくまでも会計を弄っている程度の雰囲気で、軽く誘導する。案の定、会計が釣られてたたっと副会長の方へと駆け寄っていった。
「もーっ、副かいちょったら忘れちゃったのー? 仕方ないなあ、はいあーくーしゅっ」
 そう言って差し出した会計の手、手だと? それに向けて副会長までもが手を伸ばし、ぐっと手を握りあった。それを何度か小さく上下に振り、会計がこちらへ向き直る。
「ほーらかいちょ、握手したっしょ!」
「……あ、ああ、そうだな……」
 得意げにこちらを見るな。副会長は怪訝な顔すんな。俺は顔を赤らめないでいるために必死なんだよ!
「どうしましたか。具合でも悪いんですか」
 副会長の表情が怪訝そうなものから心配に変わった。心配されるほど顔色が悪くなっているのか、俺は。
「あー……悪ィ、少し休憩する」
 それだけ言って、俺は休憩用に設けてある仮眠室に駆け込んだ。いや、駆け込んだと見えないよう、ゆっくり、堂々と歩いて入った。後ろ手にドアを閉じ、ガチャ、と鍵をかける。
 そして俺はその場に崩れ落ちた。
「な、な、何だあれ……っ」
 自分でも自分が真っ赤になっていることがわかる。自分がアクシュとやらをしたわけでもないのに恥ずかしくてたまらない。
 何だあれ、何だあれ、何だあれ!
 アクシュとはあんな破廉恥なものだったのか。手、手だぞ、手を、しかも掌同士を合わせるようにしてがっちり握りあって、更に上下に振るだと!
 俺の居た世界では、他人の手に触れていいのはその伴侶か肉体関係を伴う恋人同士くらいで、要するに性的なアピールの意味がある。もちろん普通、人前でそんなはしたないことはしない。手を握りあうのはその中でもかなり激しい意味合いを持つ上に、それを振る、と、は……!
「う、ううう……」
 恥ずかしさのあまり、俺は床に崩れ落ちたまま真っ赤になった顔を両手で覆った。くぐもった呻き声はドアを隔てた向こうには聞こえていないはずだ。
「あり得ない……」
 あれが挨拶だなんてどういうことだ! あんな、は、は、破廉恥な……っ! 破廉恥な真似を、俺もしなければならないのか? いや、しない。断じてしない。例えそれをしなかったために軽蔑されようが失望されようが、俺はアクシュなどしない。
 確かに俺はカズマの期待に応えたいと思っている。その気持ちはちゃんとあるんだ。だけど俺にはあのアクシュってやつは到底できそうにない。
 ああ、俺はこの世界で本当にやっていけるのだろうか……。


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