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 隼人さんに好きだと言われた瞬間、俺は急に現実に戻ってしまった。
 だって隼人さんが俺を好きなはずがない。隼人さんは頭も良くて大企業に勤めていてイケメンでしかもちょっとぶっきらぼうなわりに優しいから、周りの女が放っておくはずがない。
 逆に言えば、俺みたいな一見真面目そうな癖に授業サボってゲーセン行ったり部屋の掃除が嫌いなズボラだったりする上に趣味が隼人さんっていうちょっと気持ち悪い奴に隼人さんが恋なんかするはずはないってこと。確かに隼人さんと同じ大学には進学したけど、それだって中学からの持ち上がりだし。外見普通だし。性格がすごくいいわけでもないし。取り柄とかも特にない。
「ひびき、」
 優しく囁かれて俺は硬直した。
 もしかしたら、俺は隼人さんにものすごくひどいことをしているんじゃないだろうか。もし、もしもこれをやられているのが俺だったら。俺なら、好きでもなんでもない奴に愛の言葉を囁かされたら怒るどころか縁を切る。だってそんなの、人の意志を無視しすぎだろ。
 急に戻ってきた理性のせいで、隼人さんの優しい表情が辛くてたまらない。俺は唇をぶるぶる震わせて隼人さんの胸を押し返した。
「どうした? 顔色がよくない」
「は、やと、さん、俺……ちょっと、喉渇いた」
 身体を離し、距離を少し置いてポケットを探る。初期化、そう、初期化しよう。
「取ってくるから待ってて」
 空になったグラスを持った隼人さんがこちらに背中を向けた瞬間、俺はリモコンの初期化コマンドを選んだ。
 カチ。
 隼人さんは自分と俺の分の麦茶を足して戻ってくると、片方を俺に渡した。
「お前ホラー苦手だっけ? 顔青いんだけど」
 すっかり忘れている。さっきのキスも、好きだと言ったことも。
 俺はそれにほっとしたような、絶望したような思いになって、ぎこちなく微笑んだ。
「ちょっと今日のはグロかった。俺生々しいのは苦手かも」
 実はホラーもスプラッタも全部苦手なんだけど。
「へー、いいこと聞いた」
「普通のは平気だって」
「今度とびきりグロいの持ってくるわ。泣かしてやるー」
「やめろって、ちょ、おにーさんやめて」
 ニヤニヤ笑う隼人さんに脇腹をつつかれて笑い転げる。麦茶のグラスを倒しそうになって睨むと尚更笑われた。俺と隼人さんの、いつもの距離感。甘い雰囲気なんて欠片もない、ただのお隣同士。
 それが悲しいのに、ものすごく安心した。
「好きだよ、おにーさん」
 だからだろうか、俺の口からその言葉がぽろりとこぼれたのは。
「まじ? サンキュ」
 言ってしまってから自分でも衝撃を受けたのに、隼人さんはあっさり笑った。
 俺は自分が思っていた以上に傷ついて、曖昧に笑うしかできない。本気に取られなかった。もしくは、軽く受け流された。どちらにしても、隼人さんが俺のことなんか何とも思っていないことは明白だった。
「じゃ、映画も観たことだし、俺帰るね」
「完全にたかりじゃん」
「先輩なんだから後輩に優しくして当たり前だろー。お惣菜持ってきたし」
 ぽんぽん会話しながら玄関に向かう。いつも玄関脇の換気扇を回しながら煙草を吸う習慣のある隼人さんもついてきて、案の定煙草に火をつけた。
「おばさんにお礼言っといてー」
「ん」
 今回持ってきたお惣菜のうち片方は俺が作ったんだけど、隼人さんはそれを知らない。理由を訊かれたら答えられないから、俺が言うはずもない。
「じゃあまた」
「次は出汁巻き卵がいいって言っといて」
「おにーさん図々しいんですけど」
 隼人さんがあははと笑う。それに俺も笑い返して、でも内心では泣きたい気持ちでいっぱいだった。
 こんなリモコン使ったからいけないんだ。俺は隼人さんを玩具にしただけで、隼人さんの気持ちなんて完全に無視した。だからこんな目に遭うんだ。俺はマンションの階段を降りながらぽろぽろ涙をこぼした。
 帰ったらリモコンはどこかに仕舞おう。それで、出汁巻き卵の作り方を母さんに訊こう。俺ができることなんて、そのくらいしかない。


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