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 はあ、とため息をつく。息の出る音だけが喉から零れて、徹は当たり前のはずのそんなことにますます肩を落とした。気分はとめどなく落ち込んでいくのに、どこかに焦燥感に似た感情があって、どちらともつかずにそわそわしてしまう。
 コウライギは川に落ちて行方不明になったと聞いている。既に軍から人が派遣されて彼を捜索しているらしいが、その安否は未だにわからない。早く安否を知りたい気持ちと、彼に万が一のことがあったらと思う気持ちとで、徹はここ数日揺れ続けている。
『サーシャさま……』
 ライソウハに声を掛けられて、徹ははっと顔を上げた。柔らかいはずの肉の煮込み料理は、徹が箸でつついたためにほぐれて細かくぐしゃぐしゃになっている。慌てて比較的大きめの塊を箸でつまんで口に入れてから、少しだけ苦笑して見せた。
 なかなか食の進まない自分を心配してくれているのはよくわかっている。心配をかけたくなくて、できるだけ普通通りに振る舞おうと努力してはいるが、それはあまり上手くいっていなかった。
『お口に合いませんか?』
 確認してくるライソウハに、徹は小さく首を振る。れんげに持ち替えて粥を啜った。ここの粥は黄色をしていて、砂糖のようなものを掛けて食べる。その中にはよくロンエンという木の実を煮たものが加えられていて、徹はそれが気に入っていた。
 徹の声は相変わらず出ない。少し続いた微熱はすっかり下がったが、声は戻らなかった。今では本当に何も言うことができない。皓月宮の塔で聞こえる話し声はライソウハのものだけになって、それも徹が返答できないため最低限だ。
 だから、この塔はすっかり静かになってしまった。
「……」
 黙々と食事を進める。こうなってしまって初めて、徹は今まで自分がどんな風に食事をとっていたか思い出せなくなっていた。もともと口数の多い方でない徹は、話し掛けられない限りあまり口を開くことがなかった。それでも、以前はこんなに沈黙が痛かったことはないと思う。多分、そのはずだ。
 ごちそうさまでした。内心で言って、言葉の代わりに小さく手を合わせる。それで察してくれたライソウハが頷いて卓を片付けていくのを、徹はぼんやりと眺めた。
 コウライギが姿を消してから、二週間が経つ。最初の数日はいつ報せがくるかとそわそわして、一週間が経った頃には諦めが混じるようになった。それからまた数日するとやはり可能性を信じたくなって、今もコウライギのことばかりが気になってたまらない。
 コウライギだけではない。容疑者にされているシンシュウランも、徹たちが天幕に戻った時に顔を合わせたはずのセイショウカンも、その行方は杳として知れない。シンシュウランの義弟であるライソウハは不安なはずだ。だが、そんなことはおくびにも出さずに接してくれている。それを見習おうと思うのに、徹の脳裏からは湾曲した幅広の剣や、斬り落とされた腕がちらついて離れない。そうして、ライソウハに心配そうに見つめられていることに気がつく度に、また失敗していたことを悟るのだ。
「お茶をどうぞ、サーシャさま。これはここから少し南にある島でとれるトンティンという種類のお茶です」
 ありがとうの代わりに少し頭を下げ、茶杯を受け取る。独特の爽やかな香りはこれまでに飲んだことのないものだ。最近、ライソウハはこうして普段とは種類の違うお茶を出してくれることが多い。彼なりに気分転換を考えてくれているのがわかる。
 ホウテイシュウもそうだ。この二週間、皓月宮を訪れるのはホウテイシュウくらいだ。以前より頻繁に顔を出してくれる彼は、声の出せない徹を気遣って読み書きを重点的に教えてくれるようになった。表意文字と表音文字の混じり合うそれを学ぶのは会話を学ぶことよりも困難で、徹は既に何度も壁にぶつかっている。それでも、そうやって学習に没頭していると気が紛れるのは事実で、きっと彼はわかっていてやたら早いペースで学ばせようとしているのだと思う。
「書き取りの練習をされますか?」
 お茶を飲んでひと息ついたタイミングで問いかけられ、徹は頷いた。すぐにライソウハが紙と筆を出してくれる。日本の半紙とは違って、もう少し厚くてざらりとした紙に触れる。
「……」
 じっとライソウハを見上げる。卓の近くに立ったままの彼が小首を傾げる。徹が何の動きも見せないので、特に伝えたいことがないとわかったのか、そのまま見つめ返してくる。徹はなるべくはっきり伝わるように唇を動かした。
 いつも、ありがとう。
「……小人は、ずっとサーシャさまのお傍におりますから」
 心なしか照れたような微笑みを向けられ、徹もほのかに笑みを返した。


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