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 何かがおかしい。だけど、何がおかしいのかは、具体的にはわからない。
 王宮に帰り着いた一行はそれぞれの宮へと戻った。コウクガイ王子とグエン姫は綺霞宮へ、サーシャさまとライソウハは皓月宮へ。その前に立ち寄るように言われた丞相の執務室で何があったのかは不明だが、サーシャさまの頬が微かに濡れていたことが気になっていた。
 着替えの際に確認したが、懸念した外傷はなかった。何かきついことを言われたのかも知れない。ライソウハはサーシャさまを丞相であるホウジツに近づけたくないと考えながら眉を寄せた。何であろうとサーシャさまを傷つけさせたくはない。今だって、陛下の不在に悲しんでいらっしゃるのに。
「サーシャさま、お茶をどうぞ。……間もなく、医師が参ります。その方に看ていただきましょうね」
 茶杯を受け取ったサーシャさまがこくりと頷く。湯気を立てる茶杯を両手で持ち、ほうっと息を吐くサーシャさまは、少しは落ち着かれたようだった。やはり、住み慣れた皓月宮は安心できるのだろう。
 だが、それでもライソウハの中の違和感は拭えなかった。この皓月宮の周囲を守る衛士たちに見覚えのある者が一人もいなかったからだろうか。だが、衛士はそれぞれ彼らの所属する軍から選出されるものだ。たまたまこの時期に配置換えがあったのかも知れない。
 配置換えの時期については、軍の内部で決まっていても、ライソウハのような側仕えに知らされることはない。警備体制が使用人から漏れることを防ぐためだ。それをわかってはいても、こんな時の配置換えはライソウハに漠然とした不安を齎した。
 お茶を飲むサーシャさまを見守っていたライソウハの耳に、扉の叩かれる音が届いて、ライソウハは彼に断りを入れて扉へと向かった。衛士から医師の到着を知らされ、扉を開いた先に白髪の典医を伴ったホウテイシュウがいた。
「この方は御典医のトウヨウどのだ」
「わざわざありがとうございます。ホウテイシュウさま、トウヨウさま、こちらへ」
「うん、すまんね」
 典医は目を細めて頷きながら居室を横切り、長椅子に腰掛けるサーシャさまの前に膝をついた。それをライソウハとホウテイシュウで見守る。
「瑞祥、小人は典医のトウヨウと申します。お声が出なくなったと伺っております。少し診察をさせていただきますからな」
 サーシャさまが首を傾げてこちらを見る。それに頷くと、彼はトウヨウの診察に身体を任せた。トウヨウはサーシャさまの胸の音を聞いたり手首を取ったりして何かを確かめている。
 それを見守りながら、ライソウハは隣に立つホウテイシュウを見上げた。
「ホウテイシュウさま……、サーシャさまは、どうなるのでしょうか」
 問い掛けられ、ホウテイシュウが僅かに眉を下げた。
「丞相に聞いたが、サーシャさまには嫌疑はないとのことだ。……君にはつらいかも知れないが、シンシュウランとセイショウカンには陛下と前王太子妃を害した容疑がかけられている。他の誰が関わっていたのかわからない以上、なるべく皓月宮から出ないようにして欲しいそうだ」
「そうでしたか……」
 呟くように返事をして、ライソウハは俯いた。信頼していた義兄に疑いがかけられているのはつらい。それも、セイショウカンまで。
 そうしている間にもトウヨウはサーシャさまの診察を続けている。言葉が通じないことになっているのに、トウヨウは例を見せることで上手くサーシャさまを誘導して声が出るかどうかを確かめていた。
「ふむ……疲れと緊張のために少し熱が出ていらっしゃるが、喉には傷はなさそうですな。声が出ないのは、恐らく精神的なものでしょう。薬をお出ししましょう。ライソウハどの、よろしいか」
 トウヨウに言われ、ライソウハはサーシャさまから少し離れたところにある卓まで移動した。ホウテイシュウはサーシャさまの隣に腰を下ろし、その手を取って彼を労る言葉を掛けている。
 トウヨウが持参した箱から幾つかの薬草や乾いた粉末を出し、手早く合わせていく。そうしながら、ライソウハをちょいと手招いた。
「ライソウハどの、……瑞祥はテンカという植物にどこかで触れてないかね」
「テン……カ?」
「少しでも口にすれば死に至る、非常に毒性の強い植物だ」
「まさか」
 ライソウハは驚いて目を見開いた。慌ててサーシャさまの方を振り向く。彼は穏やかに語りかけてくるホウテイシュウをじっと見ている。この場にトウヨウがいるために何の反応も返せないが、それでも随分と慰められているのは何となく雰囲気から伝わってくる。サーシャさまは間違っても死んでしまってなどいないし、そんな植物などあの雪の中になかったはずだ。
「王都やその周辺では気候が合わず、生息していないはずなんですがな、どうも気にかかる。触れていないのなら違うのだろうなぁ」
 嘆息しながらトウヨウは薬の調合を終えた。幾つもの薬草が混じり合った粉末を小分けにし、それらをライソウハに手渡す。
「テンカの毒を中和する薬草は、それ自体に毒がある。確証が持てない以上は使うべきではない。とりあえず、熱を下げ体調を整えるべきですな。それで様子を見ましょう。……これを毎晩煎じて飲ませるように」
「ありがとうございます」
 薬を受け取り、ライソウハは眉を寄せたまま医師に礼を言った。
 違和感は、幾つもの棘となってちくちくとライソウハの胸に引っかかっていた。


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