29


 王宮へ戻ってきた瑞祥を呼び出した目的は明確だ。王の変事について、何か知っていないか。誰かと通じていないか。それを確かめなくてはならない。何しろ、上将軍シンシュウランが背反した可能性が高いのだから。瑞祥もまた何かを含んでいたとしてもおかしくはない。
「閣下、瑞祥がいらっしゃいました」
「通せ」
 丞相の執務室に通された瑞祥には側仕えが付き添っていた。瑞祥の顔色は優れず、それが側仕えが心配そうに見ている原因なのだろう。
「瑞祥は言葉を解さないと聞いているが」
「……陛下より、言葉をお教えすることを禁じられておりました」
「そうか」
 衛士からも、コウライギの腕を前にした瑞祥が我々には理解できない天上の言葉を口走ったことは聞いている。だが、途中に空白があったとはいえ、瑞祥は半年以上も地上にいる。それで言葉がわからないというのが信じられず、ホウジツはゆっくりと片目を眇めた。
「恐れながら、……サーシャさまは陛下の変事に衝撃を受けられ、今は天上の言葉でもお話しすることが叶いません。サーシャさまにご確認いただけることはないかと存じます」
 側仕えの立場を超えた発言だ。だが、ホウジツは些末なことを咎めたりはせず、ゆっくり頷いた。
「構わん。形式上のことだ。こうすることによって皆が納得する。……お前はここから出て控えの間で待つように」
「……かしこまりました」
 側仕えが一礼して退出して行く。心配そうに瑞祥をちらりと見たのを、瑞祥本人が不安そうに見守っている。彼がこちらに向き直るのを待って、ホウジツはゆっくりと椅子を離れた。卓の横を通って瑞祥の前に立つ。
 小さく、頼りない身体だ。力もない。少しでも重い扉は自力で開けないとも聞いたことがある。
「瑞祥、あなたが言葉を解さないというのは本当か」
 問い掛けるが、瑞祥は首を傾げもせずにじっとこちらを見上げている。言葉が途切れてしばらくしてから、ようやく首を傾けた。言葉の切れ目がわからないなら、その反応もあり得るだろう。
 だが、それが演技でないと、どうして言い切れるだろうか。
「ふむ」
 ホウジツは瑞祥を見下ろしたまま口許に手を当てた。言葉を解するかどうか、確かめるのは難しいだろう。だが、声を出せるかどうか確かめることならできる。それも、簡単に。
 疑いは全て取り払うに限る。そう決めて、ホウジツは左手で瑞祥の肩を掴んで身体を抑えた。それから右手の拳を握り、驚いて身じろごうとする瑞祥の胸の中央、肋骨の合わせ目の辺りを拳の第二関節でぐりぐりと押した。
『……! ……っ!』
 瑞祥の顔が苦悶に歪む。口が開き、声にならない息が吐き出された。だが、何の音もしない。この部位は誰が押しても酷く痛む。だが実際に傷や痣が残ることはない。
「すまんな、声が出るかどうか確かめるためだ」
 言いながら、ホウジツは更にぐりぐりと拳を押しつけた。華奢な瑞祥が両目に涙を浮かべて痛みに悶えるのを見るのは楽しくも何ともない。とうとう瑞祥の目から涙がぽろりと落ちたのを見て、ホウジツは彼の身体を抑える手を緩めた。
『……っ、……』
 涙ぐんだ瑞祥が身体を庇うようにしてしゃがみ込み、唇を噛む。それでも彼の口からは何の音も出てこなかった。
 彼が全く言葉を発せないことを確かめて、ホウジツはほっと肩の力を抜いた。これで懸念がひとつ減った。しゃがみ込んだことによって瑞祥の小さな身体がますます小さく見える。その首に首輪を認めて、ホウジツは薄い笑みを浮かべた。
「コウライギは犬と言っていたが、吠えられもせんのなら、もはや犬ではなく人形だな……」
 扉が開いたのはその時だった。
「ホウジツどの、一体いつになったら約束の……」
 言いながら入ってきたのはアルダイスイだ。彼は瑞祥の姿を認めるなり目を丸くして立ち止まった。
「今は忙しい、後にしろ」
「これは……」
「気にするな。瑞祥は言葉を解さず、今は声を出すこともできん」
 全く、面倒な時に来てくれたものだ。ホウジツは苛立ちを堪えて冷たく言い放った。
「さあ、瑞祥、こちらへ」
 手を差し出した途端に瑞祥がびくりと身体を震わせた。全く、小動物のようだ。怯えさせるつもりはなかったのだが、言葉が通じない以上、こうなっては申し開きも説明もできないだろう。ホウジツは苦笑しながらも自ら扉を開き、その先を指差した。
 側仕えがその外にいることを思い出したのか、立ち上がった瑞祥が恐る恐る近づいてくる。一歩引いて見せると、ようやく安心したのか扉の外へ出ていった。
 コウライギを失っても、彼が瑞祥であることに変わりはない。彼が心穏やかに過ごしてくれるといいのだが。そう考えながら、ホウジツは側仕えに迎えられる瑞祥の姿を扉のあたりから見守った。


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