26


 何もかもが現実味を失っているようで、徹は自分がどう過ごしたかも覚えていない。気がつけば一夜が明けていて、徹はライソウハに手を引かれ、王宮へと帰るための馬車に乗りこんでいた。
「……」
 馬車の中からぼんやりと外を眺める。まだ支度が終わっていないのだろう。外で動き回る衛士たちや用人たちの姿を見ながら、どうしてこんなことになってしまったのだろうと思う。
 ここに来るまで、徹は幸せだった。日中は言葉を教わったり、護身術を習ったりして、夜にはコウライギと過ごす。あの暖かい掌で撫でられるだけで、徹は心底満足していたのだ。
 今やその腕は切り離され、箱に詰められて荷物として運ばれることになっている。コウライギの腕は彼の一部ではなく積み荷になってしまった。
 不思議と、涙は出なかった。ただ何もかもが遠い。ライソウハが色々と声を掛けてきていたが、彼の口から出る言葉は音として徹の意識の上をするすると滑ってどこかへ行ってしまった。
『サーシャさま……』
 馬車に乗り込んできたのは支度を終えたライソウハだけではなかった。今にも泣き出しそうな顔をしたグエンと視線が合って、徹ははっとなった。徹の隣に腰を下ろしたグエン姫が涙を浮かべて徹の手を握る。
『サーシャさまっ、ごめんなさい! 妾が、妾は……お母さまに何かあるって、思っていたのに……!』
「……」
 グエン姫、と呼びかけようとして唇を開いたが、それは声にならなかった。
 コウライギは消えてしまって生死不明だが、前王太子妃セツリはその無惨な亡骸が遺されていた。彼女はグエンの母親だ。幾らグエンがセツリを嫌いだと言っていたとしても、彼女が母親を亡くしたことに間違いはない。それなのに、彼女は徹に謝罪していた。コウライギとセツリが二人でいる時に異変があったためだ。
 徹は自分自身を省みて深く後悔した。自分はコウライギの不在に動揺するばかりで、他のことは何も考えていなかった。つらい気持ちなのは、誰もが同じなのに。
「……、っ、」
 謝らないでください、と言おうとした声が出なくて、今度こそ徹は何かおかしいことに気がついた。口をぱくぱくと開くが、喉が震えることはない。少し吊り上がった両目を潤ませてこちらを見上げていたグエンもまた、彼の異変に気づいたようだった。
『ライソウハ、ライソウハっ』
 グエンが馬車の外に向かって呼び掛ける。出立の支度を終え、こちらに向かって歩いてきていたライソウハの姿は開いたままの馬車の扉から見えていたが、慌てて駆け寄ってくる。
『グエン姫、どうかなさいましたか』
『……サーシャさまがおかしいの。お声が出ていらっしゃらないみたいで……』
 周りに聞こえないように声を潜めてグエンが囁いた。さっとライソウハの表情が変わる。
『サーシャさま、お声が出ないのですか』
「……っ、……」
 出ない。何を言おうとしても喉が動かない。怪我をした訳でも何でもないのに、声帯は役割を忘れたようにぴくりとも動かなかった。ライソウハの手が額に伸びてくる。徹の額に掌を当て、ライソウハが眉を寄せた。
『少し、発熱していらっしゃいますね……。そのせいかも知れません。サーシャさま、お身体はつらいですか?』
 首を横に振ると、ライソウハは少し考え込んでからため息をついた。
『その……陛下や前王太子妃殿下のことがありますから、今は王宮へ戻る必要があります。こんなことを言うのは心苦しいのですが、戻り次第医師を手配しますので、それまで耐えていただけますか……?』
 徹はこくりと頷いた。確かに少しばかり熱っぽいかも知れないが、自分自身ではあまり不調を感じない。
 ライソウハは心配そうな顔をしながらも、出立の用意が整ったことを告げに行き、それから改めて馬車に乗り込んできた。すぐに馬車が動き出す。
『サーシャさま、お身体は大丈夫……?』
 グエンが顔色を白くして問いかけてくる。出来れば安心させたくて、徹はゆっくり首を縦に振って見せてから、そっとグエンを抱き締めた。グエンが責任を感じる必要なんてない。本当のところ何があったのかはわからないけれど、何も出来なかったのはグエンだけではないのだから。
『サーシャさま……』
 抱き締めた身体を離し、微笑んで見せると、ようやくグエンも少しはほっとしたようだった。馬車の中の空気が和らいだのを感じる。
 雪中であるため、馬車は随分と静かに走っている。徹は窓の外にコウライギの姿を探しそうになって少し俯いた。行きでは併走してくれていた姿は、今はない。落ち込んでいきそうになるのを堪えて顔を上げると、ライソウハが切ない顔で微笑んだ。少し顔色が悪いようで、心配になる。だが、声が出ないのではそれを訊くこともできない。声が出たらきっとライソウハにも心配をかけたことを謝ろうと心に決め、徹は静かに微笑み返した。
 しばらくは誰もが沈黙していたが、やがてグエンがぽつぽつと口を開いた。今回の旅に同行していた人たちの様子をライソウハに訊ねている。
『……ライソウハ、お兄さまはどんなご様子だったか、見ているかしら』
『そうですね……出立前に見た時は、顔色は優れなかったものの、落ち着いたご様子でいらっしゃいました』
『なら、いいのだけれど……』
 目を伏せてグエンが頷いた。昨日を境にして、誰もが心を痛めている。自分がしっかりしなくては。そう考えて、徹はそっとグエンの手を握った。


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