25


 ライソウハは表面上では落ち着いた振る舞いをしていたが、内心では酷く混乱していた。
 笑顔で連れ立って行った陛下とサーシャさまを見送ってから、ほんの数時間しか経っていなかった。予定よりも随分早く戻ってきた一行を不思議に思いはしたが、まさかあんなことになっていたとは、その時のライソウハは想像すらしていなかったのだ。
「サーシャさま……」
 寝台で掛布に包まり、呆然と虚空を眺めるサーシャさまは返事をしない。その様子では、ライソウハの声が聞こえているかどうかすら怪しい。
 一行を率いて戻ってきたのは、上将軍のシンシュウランでもその副官のセイショウカンでもなく、アルダイスイだった。
 陛下は前王太子妃セツリから相談を持ち掛けられ、シンシュウランを護衛に連れて川辺へと散策しに行った。彼らがなかなか戻らなかったため、アルダイスイが様子を見に行ったところ、セツリが斬殺されており、陛下の太刀とシンシュウランの太刀、それに斬り落とされた陛下の腕が残されていた。
 状況から見て、シンシュウランが陛下に叛き、陛下と斬り合った上で腕を斬り落とし、セツリを殺害して逃亡したものと思われる。陛下の姿はなく、シンシュウランの外套が脱ぎ捨てられていたことから、陛下は川に落とされ、シンシュウランは川を利用して逃亡したものと考えられる。また、セイショウカンもその後姿を消したため、シンシュウランと通じている可能性がある……。
 そんな彼の説明を、ライソウハは悪夢でも見ているような気分で聞いた。近くでグエン姫が泣きじゃくり、ナナイがセツリの遺体に縋って嗚咽していたけれど、そんな光景さえ嘘のようだった。
 シンシュウランは陛下の学友として幼少の頃から共に育ち、陛下からの信頼も篤かった。また、彼自身も信義を重んじる人で、陛下に対する忠誠心は誰よりも強かった。そのシンシュウランが、何もかもを投げ出してまで陛下を傷つけるような真似をするだろうか。
 そんなはずはないと、誰かに言って欲しかった。義理とはいえ兄と慕っていた人の背反など信じられなかったが、セイショウカンまでもが姿を消したと聞かされると、アルダイスイによる推論は急に現実味を帯びた。
「サーシャさま、せめて何かお飲み物を口にしていただけませんか……」
 足許の地面が消え去ったような衝撃に食事どころではなかったが、それでもライソウハは何とか夕餉を用意した。それに見向きもせず、ぼんやりと虚ろな目で遠くを眺めているサーシャさまは、館に戻ってから一口の水も口にしていない。
 ライソウハは泣き出しそうな気持ちをぐっと堪え、出来る限り優しい口調で再度促した。
「サーシャさま、さあ、一口だけでもいいですから……」
 先ほどから何度も勧めている茶は既に冷め切って香りも飛んでしまっている。それでもせめてと思って差し出すが、彼は身じろぎもしなかった。
「……サーシャさま……」
 じわりと視界が潤んで揺れる。零れそうになる涙を堪えきれず、ライソウハは立ち上がってサーシャさまに背中を向けた。
「さ、サーシャさま、小人は失礼いたします」
 茶杯を寝台の傍に置き、何とか早口に言い切って寝室を出る。後ろ手に扉を閉めたところで、ぽろり、と涙が零れた。
「……っ、う、ぅ」
 堪えなければ。誰より辛いのは、サーシャさまであるはずなのに。そう思うほどに一旦堰を切った涙はとめどなく溢れ出て、ライソウハは嗚咽を漏らしながらずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
「義兄上、どこにいるんですか、義兄上ぇ……」
 陛下、義兄、セイショウカン。みんないなくなってしまった。これが悪い冗談なら、今すぐ帰ってきて謝って欲しい。泣くこともできないで呆然としているサーシャさまに怒られて、苦笑しながら抱き締めてあげて欲しい。
 だが、そんな願いが叶うはずもないことを、ライソウハはよくわかっていた。


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