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『瑞祥! グエン姫!』
 天幕からは少し離れた雪原。そこでグエンと雪遊びしているところに息せききって走ってきたのは、あまり見覚えのない衛士だった。ここヨウコクに一緒にやってきた人だということはわかるが、名前までは知らない。その男の顔面は走っていたにも関わらず蒼白で、走る度に腰に帯びた太刀がガチャガチャと鳴っている。
『どうしたのかしら』
 そう呟いたグエンの表情は強張っていた。何か悪い報せなのだ、と徹は感じた。きっと、自分の顔も彼女と似たような表情になっているのだろう。
『陛下、が』
 崩れ落ちるような勢いで二人の前に跪いた衛士が喘ぐように言った。はっとグエンが息を呑んで口許を抑える。
『まさか』
『陛下が、陛下に……瑞祥、グエン姫、卑職はアルダイスイの部下、カショクと申します、卑職と共にお戻りになってください』
 どう説明したらいいのかわからない、言葉が出ない。そんな様子のカショクと名乗った男を凝視して、徹は硬直した。陛下が? コウライギに、何かあったのだろうか。尋常ではない雰囲気に、膝が震え出す。
「コウライギ……?」
 徹が人前での発言を許されているのは、コウライギの名前だけだ。だが、そうでなかったとしても、今の徹には彼の名前以外は何も言えなかっただろう。
『サーシャさま、さあ』
 青ざめたグエンに手を引かれ、はっと我に返って歩き出す。雪を踏んで歩いていたはずが、気持ちが急いていつのまにか走っていた。冷たい空気が喉に痛い。はあはあと呼吸音がやたらと煩く、徹は全身から血の気が引くような思いで走った。手を握ったグエンが少し遅れ、その手を掴んで半ば引きずるような勢いで徹は雪を蹴った。
 どうしよう。何があったのだろう。事故でもあったのかもしれない。コウライギは、彼は無事なのだろうか。
 天幕はすぐに見えてきた。そこに、何人かの衛士皆が集まっている。シンシュウランの姿は見えないが、セイショウカンの横顔を見つけて徹は走り続けた。雪を踏みしだくごとに足が沈み、思ったような速さが出ない。気ばかりが焦り、徹は息を切らして天幕に辿り着いた。
『セイショウカンさま、瑞祥とグエン姫をお連れしました』
『サーシャさま……』
 こちらを見るセイショウカンの顔が強張っている。グエンと共に肩で息をしながら、徹は辺りを見回した。
「コウライギ、コウライギ……」
 コウライギの姿がない。遠目で見たからだと思いたかったが、天幕の周りのどこにも、彼の金髪が見当たらなかった。
『瑞祥、グエン姫、お聞きください』
 歩み出てきたのは、また別の衛士だ。
『卑職はカクウンチョウの部下、アルダイスイです。……先ほど、陛下と前王太子妃殿下がシンシュウランを伴って川辺へ散策に行かれたのですが……』
 アルダイスイに促され、徹とグエンは天幕へと入った。その中央には布が敷かれ、二振りの血に塗れた太刀と、そして見覚えのある腕が並んで置かれていた。
『ひっ……』
 グエン姫の微かな悲鳴が聞こえたが、徹はそちらを見る余裕さえなくしていた。
 血塗れになった、徹とお揃いの外套を纏った腕。二の腕から切り落とされたその手には、確かに見覚えがあった。何度も徹の頭を撫で、抱き締めてくれた、コウライギの右腕だった。
「コウライギ……」
 ふらふらとその腕に近づく。へたり込むようにして腕の前で膝をついた徹は、震える指先で物のように転がるその掌に触れた。
 ひんやりと冷たい感触に、びくっと肩が跳ねる。反射的に引いてしまった指先で再び触れると、その温度と同じだけ冷酷な現実が確かな感触で徹に応えた。
『……卑職が駆けつけた時には、前王太子妃殿下は既に息がなく、陛下の腕とこれら二振りの太刀だけが……』
 アルダイスイが徹とグエンに向けて話しているが、何も頭に入ってこない。徹は全身を震わせながら、ゆっくりとコウライギの手に指を絡めた。
『……恐らく、陛下は亡くなられたものと……』
 その一言だけがすっと刃物のように突き刺さり、徹は喉を痙攣させた。呼吸が引き攣り、泣いている時のように不規則に跳ねる。それなのに涙は出なくて、泣いているような、笑っているような音が喉から漏れた。
「さ、さっきまで、さっきまで……」
 譫言のように、言葉が唇から零れていく。
『サーシャ……さま……? 何を、何を仰っているの……? それは、天上のお言葉なの……?』
 グエンが何か言っている。徹はここで覚えた言葉のことも忘れ、ただコウライギの腕を見つめて唇を震わせた。昨夜、コウライギは徹を抱いてくれた。暖かな体温に包まれて、夢も見ないほど深く眠った。今朝も寝ぼけ眼の徹にくちづけてくれて、その手が何度も撫でてくれた。さっきだって、グエンと連れ立って遊びに行く徹を見送ってくれたのだ。この右手を振って。暖かかった腕で。
『サーシャさま? サーシャさま!』
「さっきまで、ここに、いたのに、……」
 コウライギ、と呼びかけようとした声は言葉にならなかった。


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