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 話し声が聞こえない程度の距離を保ち、シンシュウランはコウライギとセツリが川辺で会話している様子を見守った。川といっても大河からの支流であるそれは幅もあれば勢いも激しく、ごうごうと音を立てている。どこか嫌な予感がしなくもなかったが、セツリは武術の心得があるとはいえ帯剣していないし、コウライギ自身もいざとなれば川に飛び込むくらいのことはできる。
 セツリがコウライギへ向ける視線の意味を、傍で見てきたシンシュウランはよく把握していた。本人は王妃という立場に拘っているつもりなのだろうが、コウライギに対して特別な感情があることは明白だった。チョウハク国から嫁いできた時には軽んじていたコウライギに恋をしたことは、セツリ自身の自尊心をいたく傷つけたことだろう。だからこそ、彼女が王妃に選ばれなかったことで、どんな暴挙に出てもおかしくはなかった。
 コウライギの意見もまたシンシュウランと一致していた。女は恋した男よりも、その男を奪った他の女を恨むというのが通説だ。コウライギは何より瑞祥にセツリが抱いた恨みの矛先が向くことを懸念しており、だからこそ彼女の「相談」にも応じたはずだ。
 シンシュウランの見つめる先で、コウライギが忌々しげな表情を川面へ向けている。その背中に縋りつきかねない勢いでセツリが何かを訴える。だが、コウライギは首を横に振った。
 セツリが雪原を踏み、コウライギへと近づく。足音が川の流れる音に紛れたか、彼の反応は一瞬遅れた。
「陛下!」
 咄嗟に雪を蹴って走り出す。やめろ、やめろ、やめろ!
 龍袍の上から豪奢な外套を纏った背中が振り返る。トールと揃いだと言って誂えさせたものだ。その懐へ飛び込むようにして、セツリがコウライギの腰の太刀をすらりと引き抜いた。コウライギが手を伸ばし、セツリの手首を掴もうとして、そこで僅かに顔を背けた。振り上げられた刃が光る。反射した陽光で目が眩んだのだと悟った。
「……っ、あああああ!」
 止める間もなかった。シンシュウランは駆けたが、全ては一瞬のうちに行われた。
 太刀が振り下ろされる。血が飛び散る。どさりと重い音。均衡を失った身体が後ろへ傾く。一歩、二歩、コウライギの足がよろめく。そして、水飛沫と共に、コウライギの身体が急流に落ちた。
「陛下ァ!」
 声の限りに叫び、シンシュウランは外套を引き千切るほどの勢いで脱ぎ捨て、腰に帯びていた太刀も投げ捨ててすかさず川へと飛び込んだ。
「ぐっ、う、う」
 真冬の川は凍えるほど冷たい。たちまち全身を濡らした水の冷たさは痛みを伴うほどで、シンシュウランの手足は急速に冷えて感覚を失っていく。勢いのある流れに押し流されながらも、シンシュウランは何とか顔を上げてコウライギの姿を探した。
「がっ……ぐ」
 流れに押されて脇腹を強かに岩へと打ちつける。呼吸が詰まり、一瞬動きが硬直したところを更に流された。駄目だ。もっと速く追いつかなければ。
 陛下、どこだ。どこにいる!
 必死に水面から顔を上げ、コウライギの姿を探す。突き刺さるような水飛沫を浴びて、既に顔面の皮膚の感覚はない。思うように動かない腕を動かし、少しでも速くと焦る。
「へ、いか」
 見えた。飛沫の見間違えか、あるいは本当にそこにいるのか。そこにいることを願ってシンシュウランは必死で水を蹴った。距離は既に遠く、瞬間的に視界に入った姿は意識を失っているように思えた。まずい。この川は傾斜のために流れも速く、大きな岩も多い。万が一意識のないコウライギが岩に叩きつけられたなら、最悪の事態も考えられる。
「ぐあっ!」
 流れが変わり、シンシュウランは岩に叩きつけられた。咄嗟に腕で衝撃を和らげたが、身体が半ば岩に乗り上げるほどの勢いを受けて呼吸が止まる。思わず咳き込んだシンシュウランの目に、今度こそコウライギの姿がはっきりと見えた。
「……!」
 再び流れの中に飛び込む。長く嵩張る外套を脱ぎ捨てたとはいえ、冬の衣服は重く身体にまとわりつき、シンシュウランの自由を奪う。
 コウライギ、とシンシュウランは流れに翻弄されながら内心で叫んだ。死ぬな、コウライギ。お前はまだ死んではいけないのだ。シンシュウランは力を振り絞り、必死の思いで水を掻いた。


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