21


 朝のひとときをトールと二人で過ごし、皆で昼食を取った後、コウライギはトール以外にセツリとグエンも伴って湖へと向かった。身体は頑丈だと言っていただけのことはあって、昼頃には体力を取り戻したようだった。慣れない馬に跨がってはいるが、つらそうな様子は特にない。
 馬に同乗したトールを腕の中に抱いて、雪原をゆっくりと進む。見たことのないものが多く、興味深そうに様々なものを眺めるトールにひとつひとつ教えてやりながら森を抜けると、開けた先に湖が見えた。広大な湖は寒さに表面が白く凍っており、それがどこまでも続いているように見える。コウライギは少し馬を走らせ、他の面々を引き離して先に湖畔まで来た。
『すごい……』
「凍った湖を見るのは初めてか?」
 湖を目の当たりにしたトールが、思わずといった様子で小さな声を漏らした。後続に聞こえないよう声を潜め、コウライギは彼に問い掛ける。トールの頭がこくんと頷いたが、視線は湖に釘づけになっている。それが微笑ましく、コウライギは胸に凭れかかる黒髪を撫でてやった。
「陛下、あまり先に行かれては……」
 すぐに追いついてきたシンシュウランが苦笑している。本日の供はセツリとグエン、護衛はシンシュウラン、セイショウカンとアルダイスイ、それに彼らの部下三名だ。ライソウハやカクウンチョウ、ナナイや他の衛士たちは圭璋館で王一行の帰りを待っている。
「すまんな。トールに早く湖を見せてやりたかったのだ。トール、この湖は夕暮れ時が一番美しい。後で見に来よう」
『はい』
 頷いたトールの表情はあまり変わっていないが、振り返ってこちらを見る瞳がきらきらと輝いている。そこに彼の期待を読み取って、コウライギは笑みを浮かべながらぐしゃぐしゃとトールの頭を撫で回した。
「あちらに天幕をご用意いたしました」
「ああ」
 皆の許へ戻ると、王宮を離れて以来ずっとはしゃいでいるグエンが早速トールの手を引いて駆け出した。本来なら自分で連れ回してやるつもりだったが、グエンにその役割を取られてしまった。天幕は張ってあるが、中にいては彼らの姿が見えない。苦笑しつつ、近くでしゃがみ込んで何やらしている二人を眺める。しばらくそうしていると、ふと誰かが近くへやってくる足音が聞こえた。
「セツリどの」
「陛下、この度は妾たちを連れてきてくださって、ありがとうございました。グエンも随分と楽しそうにしております」
「トールが遊び相手になるまで忘れていたが、グエンはまだ幼いからな。時には子どもらしく遊ぶことも必要だろう」
「そうですね」
 セツリの言葉に頷きながら言うと、彼女は笑みを見せた。それから、その微笑みが曇る。
「……陛下。実は、子どもたちのことで、ご相談があるのです」
「相談?」
 コウライギはひょいと眉を上げた。ここ、ヨウコクには行楽のために来ている。王宮でもないのに、何を相談するつもりなのか。そんな内心を察したのか、セツリが雪に負けないほど白い頸を縦に動かした。
「できれば内密にお話ししたかったのですが、王宮で二人きりになるのはお立場に障りますから……」
 その言葉に納得し、コウライギは首肯して歩き出した。
「陛下、どちらへ」
「吾はセツリどのと少し話してくる。目の届く程度のところにいろ」
 人前であるため、シンシュウランが畏まった口調で問い掛けてくる。コウライギはさっと手を振ってシンシュウランの接近を制した。内密に、ということなら、その内容が聞こえない距離を保った方がいいだろう。すぐにシンシュウランが承諾したのは、コウライギが腰に太刀を佩いているからだ。
 そうしてコウライギは雪の中を川辺へ向かって歩いていく。その後ろにセツリが続いた。
 湖の近くを流れる川は、かなり大きなものだ。渡るには舟が必要になるくらいの幅があるが、流れが急なので舟は渡せない。ここからずっと下流のあたりになら橋が架けてあった。
「……陛下は、本当に瑞祥を王妃に据えられるおつもりですか」
 川面を眺めるコウライギの背中に、セツリの声が掛けられる。コウライギは半ば予想していたその言葉にうんざりしながら頷いた。
「ああ。本王はトールを王妃に娶るつもりだ、義姉上」
 振り返りもせずに言い切る。わざと義姉と呼んだのは、兄の妻であった人はそもそも婚姻の対象に考えたこともないということを知らしめるためだ。案の定察したようで、セツリが黙り込んだ。
 無言のままじっと川面を眺める。冬ではあっても、流れる川の水は凍ったりはしない。岩に当たって跳ねる飛沫はいかにも冷たそうに砕けては流れに戻っていく。その水の冷ややかさと同様の冷ややかな表情を浮かべたコウライギは、それを見せないためにもじっと目の前の川を見つめ続けた。
「……でも、でも、妾には、陛下の妻になる覚悟が……」
「既にトールが王妃になることは決まっている。それに、トールは天上も家族も全て捨てて吾の許へ戻ってきた。トールも覚悟してのことだ」
「も、もしも瑞祥との間に子ができたなら、コウクガイはどうなるのです!」
「コウクガイは成人し次第立太子させる。それは変わらん」
 必死に言い募るセツリはどんな表情をしているのだろうか。コウライギは溜め息をつきたくなるのを堪えて眉を寄せた。シンシュウランに離れたところで待機するように言ったのは失敗だった。近くにいれば、少なくともセツリを宥める手伝いくらいはして貰えたはずだ。
「……お考えは……変わらないのですか」
「ああ」
 言い方や切り口を変えたところで、根本は同じだ。コウライギにはトール以外を妻にするつもりがない。
「何より、吾はトールを愛しているのだ。トールを傍に置き、一生を共にしたい。だから、吾の王妃はトール以外あり得ない」
 はっきりと言い切ると、後方から息を呑む音が聞こえた。相変わらず川の水はごうごうと流れていたが、その音は確かにコウライギの耳に届いた。
 さすがに気になって振り返ろうとしたコウライギの耳に、思いのほか近くで雪を踏む音がした。
「妾の役目だったのに」
「なっ……」
 すぐ後ろまで来ていたセツリが、振り返ろうとしたコウライギの腰に佩いてあった太刀をすらりと引き抜いた。制止すら追いつかないほどの素早い動きだった。
「妾は王妃に、国母にならなければならないのに!」
 太刀が振り上げられる。セツリは王女だ。普段なら薄絹の一枚も自分では扱わなくとも、徒手での護身術も、多少の剣術も身についていて当然だった。振り上げられた刃に陽光が反射して一瞬目が眩む。それでも止めようと、咄嗟に腕をセツリの手に伸ばした瞬間、その右腕に衝撃が走った。
「……っ、あああああ!」
 体験したことのないほどの衝撃、そして痛み。どさっと何かの落ちる音。身体が暖かい何かで濡れる。ぐらりと足許が揺れる。後ろ向きに倒れていく視界で、びしゃっと飛び散った血がセツリの真っ青な顔に跳ねたのを見た。
 森に積もった白い雪。青空。衝撃。全身に突き刺さるような痛みと光の乱舞。それから、暗闇。
 へいか、と叫ぶ声が聞こえた。


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