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 側仕えとしては自分はかなり楽をさせて貰っていると、ライソウハは思っている。
 普通、側仕えというものは、主よりも早く起きて働き始め、主が眠った後にようやく休むことのできるものだ。だが、サーシャさまの側仕えとして働き始めてから、実際に彼が眠った後に仕事を終えたことはほとんどなかった。
 義兄であるシンシュウランからは「昔よくコウライギたちとつるんで街へ行った」としか聞いていないが、庶民の暮らしに触れたからだろうか、コウライギはあまり側仕えや女官に身の回りのことを任せない。大概のことは彼が自分の手で済ませてしまうから、龍袍を着せる必要もなければ湯浴みを手伝う必要もないと聞いた。それどころか、驚いたことに彼は茶を淹れることすらできるのだそうだ。
 だから、ライソウハの仕事は朝こそ早いものの、夜になって陛下が皓月宮を訪れたところで終わる。そこからは陛下がサーシャさまの細々とした面倒を見られるのだ。ただでさえ身分の分け隔てがないと言われる天上育ちのサーシャさまには随分楽をさせて貰っているが、それ以上だ。
「失礼いたします……」
 夜が明けたので、寝室にいるはずの王とサーシャさまを起こさないよう、そうっと扉を開ける。居室を通り抜けてこっそり寝室に足を踏み入れた。寝台は天蓋の覆いが下がっているので見えないが、そこに二人がいるはずだ。なるべく足音を殺して寝室を抜け、その奥にある浴室へと向かった。
 こうして朝の湯の支度をするのもライソウハの役目のひとつである。実際に湯浴みをされるかどうか、その必要性があるかどうかは問題ではない。湯浴みをしたいと思った時に用意が整っていること、それが大切なのだ。
 熱く煮えたぎるような湯を運んで寝室を通るのは一度や二度では済まない。皓月宮では居室は通るものの寝室を経由せずに済む構造になっていたが、この館では古式ゆかしく寝室を経由することになる。手に持った盥から湯浴み用の大盥に熱湯を移し、ライソウハは居室の扉の前に置いた残りの湯を五度の往復で運びきった。
 一度、ライソウハが湯浴みの用意をしているところで、手伝おうかとサーシャさまに声を掛けられたことがある。側仕えの仕事を手伝わせるなど以ての外だと断ろうとしたライソウハは、彼の視線が興味深そうに盥に向いているのを見て、一度だけお試しくださいと言った。
 それでどうなったかと言うと、サーシャさまは盥のあまりの重さに耐えられず、大盥の手前で半分ほど湯をぶちまけてしまったのだ。幸い火傷をすることはなかったが、ライソウハは息も止まるかと思うほど驚愕し慌てた。その後も陛下からの咎めはなかったものの、後から思い返してもサーシャさまのあまりの非力さを思うと手首を捻挫してしまわなくて良かったと思うばかりだ。
 その時のサーシャさまは、無謀な試みをしてライソウハを心配させてしまったことを何度も詫びていた。側仕えに詫びる主人など聞いたこともなかったが、それも彼の心が優しいからだろう。ライソウハはその時のことを思い出し、内心でふふと含み笑った。勿論音はひとつも立てない。
 そうしてライソウハが最後の湯を大盥に注ぎ込んだ時、ふと、水音が伝わらないように閉じておいた扉の向こうから物音が聞こえてきたことに気づいた。
 まずい。陛下かサーシャさまのどちらかがご起床されてしまった。盥を持って寝室を出て行くことを陛下なら咎めないだろうが、サーシャさまは恥ずかしがるだろう。陛下と二人きりでいるところに第三者がいると落ち着かなくなられるたちなのだ。
 困り切って扉の向こうの様子を窺うと、扉に遮られて少しくぐもった話し声が聞こえてきた。
「起きたか、トール」
『ん……コウライギ……』
「身体は大丈夫か。……無理をさせたな」
 無理、とは、どんな無理なのだろう。首を捻るライソウハは閨房のことなどまるで知らない。早くに親を亡くしたライソウハを育ててくれたのは姉で、その後義兄のシンシュウランが加わったものの、そういうことは全く教えられず、いささか過保護なほど守られて育った。だから、たまに他の女官や用人たちが性的な話題を出しても、どうも意味がわからなかったのだ。
『あの……体力はあるつもりですし、以前は頑丈だと言われていましたし、何より……妾が、望んで、その……抱いていただいたのですから……』
 大丈夫です、という最後の一言が掠れる。
「トール……」
『んっ、あ……こ、コウライギ』
「朝からそんなことを言うな。また抱きたくなる」
『あ、ぁ……』
 声の合間に、ちゅっちゅっとくちづけの音が聞こえてくる。流石に向こうで何が行われているのか察して、ライソウハは顔を赤らめた。閨房のことは知らなくとも、くちづけなら実際に見掛けたこともある。ライソウハにとっては、漠然としてわからない閨事よりも、くちづけの方が恥ずかしく感じられた。
「ん……トール……」
『ぁ、んぅ、だめ、です、コウライギ……ひゃっ、あっ、そこ、あぁっ』
「抱いたりはせぬ。ほら、気持ちがいいだろう?」
 会話にならない会話の合間に水音が混ざる。ライソウハはいよいよ顔を赤くして扉の内側にうずくまった。わざと聞こうとしたわけではないけれども、聞いてはいけない気がする。慌てて両手で耳を覆い、ぎゅっと目を閉じた。
 どれほど経っただろうか。恐らく四半刻も経っていないはずだが、不意に扉が開かれてライソウハは背中からころりと床に転がってしまった。
「……っ!」
 ぱっと目を開き、驚きの声を何とか押し留める。床に倒れたライソウハの視界に逆さに移る人影は、陛下のものだった。
「……」
「……」
 硬直するライソウハを、陛下がまじまじと見下ろす。その視線がライソウハの隣に置かれた盥に向き、それから湯気を上げる大盥へと向けられ、最後にまたライソウハを見た。
「……トール、やはり気が変わった。共に湯浴みをするか」
『えっ……で、でも、妾はコウライギの後で……』
「遠慮するな、吾が清めてやる」
 言いながら陛下が踵を返し、寝台へと向かって歩を進める。ライソウハのところからは寝台の上にいるはずのサーシャさまが見えなかったが、それはつまり彼からもこちらが見えないということだ。慌てて身を低くしながらも身体を起こしたライソウハは、陛下がサーシャさまを抱き上げ、彼からこちらが見えないようにして浴室へと歩いてくるのを見て陛下の意図を悟った。
 慌てて盥を取り、足音を殺して陛下と擦れ違う。そのまま寝室から飛び出し、ようやくほっと肩の力を抜いた。緊張のために疲労感がものすごい。
 ほとんど耳を塞いでいたので、相変わらず閨房のことはよくわからない。だが、後朝というものがどんなものか、よくよく思い知らされた朝だった。


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