17


 昼食を済ませた後、グエンは王の許しを得てから瑞祥を連れて館の周りを散策していた。父である前王太子が亡くなるまではここへ頻繁に来ていたようだが、彼が逝去してからは初めてだ。あまり見たことのない館が物珍しいのは瑞祥も同じようで、二人は目にする様々なものにいちいち驚きながら歩き回った。
 先ほども、厨房に入り込んで焼き菓子のたねを捏ねるのを二人で体験させて貰ったところだ。ひとつひとつ実演して見せる厨人の手つきを真似して捏ねた菓子は、この後焼かれてお茶の時間に出される予定だ。それから裏の庭園を歩いて回り、グエンは赤く色づいた蔓で冠を編んでそこにジンの花を挿し、瑞祥の頭に載せた。瑞祥は少しばかり照れくさそうにしていたが、赤い花が黒髪に映えて美しく、グエンは彼に外さないように頼み込んだ。
 正直なところ、母も一緒に来ていることは不満だったが、こうして瑞祥と過ごせるのは純粋に楽しい。グエンは普段の大人ぶった振る舞いを忘れて生き生きと動き回っていた。
「サーシャさま、少しは楽しいと思っていただけているかしら? 妾、サーシャさまを無理に連れ出してしまったのではないかと懸念しているのだけれど」
 ころころと表情を変えるグエンとは対照的に、瑞祥はほとんど表情が動かない。しばらく接しているので彼がそういうたちであることはわかっているが、その分内心が読めない。グエンは館の裏手にさしかかったところで彼へと素直に問い掛けた。
『とても楽しいです、グエン姫』
 瑞祥が周囲に人がいないことを確かめてから、その黒い瞳を和ませてほのかに微笑む。それに安堵して、グエンもにっこりと笑った。
「それは良かったわ。では、今度はあちらへ行ってみましょう。妾、厩舎を見てみたいの。ほら、王宮だと気軽に行けないでしょう」
『そうですね』
 瑞祥の手を引いて厩舎を目指す。館の横にある少し小さめの建物がそれで、近づくだけで独特の匂いがしてきた。馬や飼い葉の匂いだ。
 館を出る前に着込まされた毛皮の外套にくるまった二人が辿り着くと、折しも馬丁が馬の毛並みを整えているところだった。珍しい黒っぽいこの馬は確か、王のものだったはずだ。
「王女殿下と瑞祥でいらっしゃいますか」
 慌てて跪こうとする馬丁を手で制し、グエンは無邪気な微笑みを湛えて馬丁を見上げた。
「礼は構わないわ。それより、これは陛下の馬よね?」
「さようでございます」
 馬丁が恐縮しながらも地面につこうとした膝を上げ、腰を低くして答える。グエンは感嘆の視線を馬へ向けた。黒みがかった茶色の馬は非常に珍しく、実はここへ来る道中でも気になっていた。普通の馬は白いものだからだ。
 その馬を間近で見上げると、馬の茶色い瞳がこちらを見つめ返してくる。瑞祥を見ると、グエンと同じように馬を見上げていた。
「触れても構わないかしら」
「はい。そっと撫でて差し上げてください」
 きらきらと瞳を輝かせて問えば、馬丁が緊張に強張っていた表情を緩めて頷いた。馬丁が念のため馬の首を軽く抱いて抑えてくれたので、グエンは恐る恐る手を伸ばし、馬の胴体に触れてみた。思ったよりも硬い毛はつやつやしていて感触がいい。促すように瑞祥を見ると、彼も微かに笑みを浮かべて馬に触れた。
 グエンは彼のために一歩引いて、ふと傍に控える馬丁を見た。随分若い馬丁だが、王の馬を任されているのだから、ここにいる馬丁の中では最も腕があるのだろう。ちらりと厩舎を覗き込んでみると、他の馬丁たちも随分若いように見えた。
「あなたが馬丁頭なの? 随分お若いのね」
「はい、小人がここで最も長いので。十二の頃から十年ほどここにおります」
「まあ……」
 成人しないうちに働きだすことは市井では珍しくはない。知識では知っていたが、初めて実例に触れてグエンは目を丸くした。では、この馬丁はまだ二十二かそこらなのだ。言葉がわからないことになっているから何も言わないが、瑞祥もまた僅かに驚いたような表情になっていた。好奇心に駆られてグエンは更に馬丁に問い掛けた。
「もっと年嵩の方はいないのかしら? ここの馬丁は皆若そうね」
 そう言った途端、馬丁はどこか居心地の悪そうな顔になった。
「その、実は……五年前の事故の際に、当時の馬丁は皆罷免されまして……。小人はその頃見習いでしたので残されたのです」
「ああ、そうだったの……」
 グエンは納得して頷いた。事故とはいえ、当時王太子だった人が亡くなったのだ。それも当然のことだった。
 父親を失った時、グエンはまだ四歳だった。既に父親の記憶は朧気だ。それでも、そのことを思い出すと感傷的になってしまう。
 間近で見る馬に興奮していた時は感じなかった寒さが急に気になり、グエンはふるりと小さく震えた。横を見ると、瑞祥が馬と並んだままどこか心配そうにこちらをじっと見ている。馬のつぶらな瞳と瑞祥の瞳がどこか似て見えて、グエンはくすりと笑った。
「お父様が亡くなられたのは残念なことだけれど、妾はお父様のことをほとんど覚えていないの。だから大丈夫よ」
 わざと馬丁に向けて言ったのは瑞祥に聞かせるためだ。瑞祥の肩から僅かに力が抜けたのを見て、グエンもほっと微笑んだ。
 ナナイの声が聞こえてきたのはその時だ。
「グエンさま、グエンさま、どちらにいらっしゃるのですか」
「ナナイ! こちらよ!」
「こちらにいらしたのですね、そろそろお茶に……」
 ぱっと振り返り、声の聞こえた方へ返答する。建物の角を曲がって出てきたナナイの微笑みと声が途切れた。ぴたりと足を止めたナナイの顔が少しばかり青い。
「色々ありがとう。また馬を見せてくださいね。……どうしたの、ナナイ」
 馬丁に声を掛けてから瑞祥を伴い、こちらから歩み寄りながら訊くと、ナナイは視線を伏せた。
「申し訳ありません、グエンさま。小人は馬が苦手で……」
「馬が?」
 意外な言葉に首を傾げる。ナナイは努めて馬を見ないようにしながら、グエンの傍に並んで館へと歩き出した。さくさくと雪を踏んで、往復の足跡を残していく。
「前王太子殿下が亡くなられた際、近くにいたのですが……馬が、暴れていて……。それが怖くて、以来あまり馬は」
「それは……仕方ないわね。あら、でも馬車は大丈夫なのでしょう?」
 顔色の悪い彼女に向けて笑って見せると、ナナイも僅かに表情を緩めて頷いた。
「はい。あまり近づかなければ構わないのですけれど……」
「なら問題ないわね。ナナイが馬車も駄目なら牛にでも馬車を牽かせようかと思ったのだけれど。ね、サーシャさま?」
 わざと話を振ると、瑞祥はグエンに合わせて少し首を傾げてくれた。何を言っているのだろう、とでも言いたげな表情に、今度こそナナイが小さく噴き出した。


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