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 透き通るような白い膚に薄紅色の肚兜と薄絹の裳を纏い、セツリは柔らかな動作で鏡台の前に腰を下ろした。少し乗り出して鏡を覗き込むと、しっとりとした濃い茶色の髪がさらりと背中から滑り落ち、それが彼女の剥き出しになった腕の白さとの見事な対比を見せた。
 鏡の中から自分を見つめ返す女性の姿は美しく、到底二人も子どもを産んだようには見えない。ぱちりと瞬きをすると、鏡の女性もまたひとつ瞬く。けぶるような睫毛が一瞬影を落とし、そしてその下から澄んだ色の瞳が現れるのを彼女は見守った。未だに多くの人々から賞賛される美貌を持ったセツリは二十六歳。初婚には遅い年齢だが、まだ子どもを産むこともできる。再婚するのには遅くなかった。
 そのセツリの美しく整った顔が僅かに歪む。眉の間にうっすらと皺が寄せられ、桜色の唇が引き結ばれる。どれだけ美しくても、セツリの持つ色は茶色だ。チョウハク国の王族のひとりである彼女は、これまで高貴な生まれを表すその色を羨まれていた。だが、それも今では見劣りしてしまう。どんなに深い茶色も、生粋の黒には敵わないからだ。
「コウライギさま……」
 今のコウ国国王であるコウライギと初めて会ったのは、彼がまだ何の力もない第三王子だった頃のことだ。コウ国では第一王子が王となり、第二王子は丞相となってそれを支える。第三王子はどれだけ出世したところで上将軍、それも実力が伴った場合の話だ。実力がなければ下将軍の地位すら怪しい。
 生まれの卑しさを表す金髪をなびかせたコウライギを見て、当時十六歳で王太子に輿入れしたばかりのセツリは内心で彼を見下していた。自分はやがて王妃になり、国母となる。半分平民の血が混ざったコウライギのことなど対等に見られるはずがなかった。そしてその考え方は、第二王子が世を去ってコウライギに丞相の地位が約束された時も変わらなかった。
 それが変わったのは、彼女が夫として慕っていた王太子までもが儚くなってからだった。
 二人の遺児を抱え、セツリは呆然としていた。王妃になるはずだった。わが子が次の王位を継ぐはずだった。それなのに、王位は第三王子であったはずのコウライギのものとなり、セツリの称号は前王太子妃で終わってしまった。悔しい、と感じるよりも、侮辱されたような気がした。多くの尚書たちがセツリに再婚を勧めたが、卑しい血の混じったコウライギとの再婚など、考えただけで吐き気がしそうだった。
 だが、その考えも年月と共に変わっていった。今やコウライギは立派な王だ。治世にも外交にも何ら落ち度は見られない。いっときは不安の渦に叩き込まれていたコウ国は持ち直すどころか一層栄え、そしてとうとう彼の許には瑞祥まで降臨した。
 その時になって初めて、セツリはコウライギと再婚しても構わないと思うようになった。
 幸い、コウライギは亡くなった兄を尊敬していた。前王太子の遺児であるコウクガイを次の王にすると名言していたし、それならば何の障害もなくすために自分との再婚を選ぶだろう。よく見れば彼は少しばかり武骨なところはあるが美男子であるし、人柄も多少横柄なところに目をつぶればなかなか優れている。だから、セツリはコウライギからの求婚を心待ちにしていた。
 そのコウライギが、瑞祥との婚姻を発表するまでは。
「セツリさま……」
 音もなく扉が開き、心配そうな顔をしたナナイが顔を覗かせた。香油の載った盆を持ってしずしずと入ってくるナナイの姿に唇を噛む。これまで、セツリは散々ナナイにあることないことを吹き込んできた。コウライギは度々妾に見惚れている。人目のないところでは自分に迫ってくる。彼は妾のことを王妃にしたいのだ……。
 全て、嘘になってしまった。
「セツリさま、お気を落とされませんよう……」
 香油が薫る。とろりとした香油を櫛に垂らしたナナイが、それをセツリの髪にそっと通しながら、彼女の方が今にも泣き出しそうな声でそう言った。
「……いいのよ、ナナイ。コウライギさまはきっと、瑞祥に迫られて断り切れなかったのだわ。瑞祥は王に並ぶ地位をお持ちだもの……」
 微笑みを浮かべながらも悲しげに目を伏せる。それだけで、年の離れた従姉であるナナイははっと息を呑んだ。すっかり信じているのだ、彼女が大切にしてきた可愛い従妹のことを。
「そんな……まさか、サーシャさまがそんなことをなさるなんて……。陛下のお気持ちは明白だったのでしょう……?」
 セツリはゆるゆると頷いた。
「ええ……。コウライギさまは妾の手を取って、妾を王妃にしたいのだと仰いました。この綺霞宮の、中庭にあるソテツの木の下で……」
「セツリさま……っ、あっ」
 ぽろぽろとナナイの瞳から涙が零れた。慌てて袖で拭おうとする彼女へと振り返り、セツリは椅子から立ち上がった。鏡台に置いてあった手巾を取ってそっと彼女の目許に当てる。
「泣かないで、ナナイ。妾は大丈夫、大丈夫です……」
 そう言えばますます泣くとわかっていて、セツリは精一杯悲しげな微笑みを見せた。
「姫さま……っ」
「ナナイ……」
 そっとナナイを抱き寄せる。そうしながら、セツリは彼女に酷く冷たい目を向けていた。自分は夫を失い、二度も王妃になる機会を逃した。コウクガイは頼りなく、前第二王子の遺児であるコウレキスウの方がよほど王としての資質を見せている。尚書たちも今ではコウレキスウにばかり擦り寄り、綺霞宮には見向きもしない。そんな風にセツリは何もかもなくしたのに、同じチョウハク国から嫁いできたナナイは夫にも息子にも恵まれ、年取った今もなお愛されて幸せそうにしている。
 お前に何がわかるの。妾の何がわかると言うの。
 セツリに残された道は二つしかない。瑞祥を王妃にすると言ったあの宣言を撤回させて自らが王妃になるか、あるいはこの綺霞宮で誰にも顧みられずに朽ちてゆくかだ。
 主を想って泣き続けるナナイを抱き締め、セツリは視界の隅に映る鏡台へと視線をやった。
 鏡の中で、美しい女が冷え冷えとした笑みを浮かべていた。


肚兜…女性の肌着、キャミソールに似た形だが背中は開いている 裳…スカート


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