8


 コウクガイはまだ十歳だったが、既に己の限界を感じていた。
 前王太子を父に持ち、チョウハク国の王女セツリを母に持つコウクガイは、母に似て線の細い少年に育った。二つ年上のコウレキスウと比べるとその差は明白で、頭二つ分ほども身長が違う。大きく差をつけられているのは体格ばかりではなく、コウレキスウは既に文武における才能を見せている。それなのに、コウクガイは武術を捨てて学問だけに勤しんでいるにも関わらず、コウレキスウの足元にも及ばないのだった。
 もちろん、コウクガイはまだ若すぎるほどに若い。長じてから王の器になることもあるだろうが、それでも立太子までに大きく変わることはないだろう。周りの期待に反して、彼自身は既に自分に対して見切りをつけていた。
「はあ……」
 母のセツリは理想が高く、やんわりとした口調ながら何かとコウクガイをコウレキスウと比較する。口を開けば必ず「陛下は殿下を次の王になさるおつもりですからよいのですけど」という枕詞がつくが、そんなセツリに学問を教わったことなど一度もない。幼少の頃から養育は乳母任せ、学問は講師任せにされてきたコウクガイは、母に会う度に自分でもよくわからない居心地の悪さを覚えるのだ。いつまでも美しく儚い母が、まるで他人のように思えるからなのかもしれない。しかもこの頃セツリはコウクガイを実力以外の何らかの要素で王位につけるつもりなのか、妙に陛下に擦り寄っているのも気になった。
 ため息をつきながらゆっくりと回廊を進む。午前中いっぱいは歴史を学んだ。これから昼食を挟んで、午後は国内の地理と治水について学ぶ予定になっている。講義を終えてから昼食が用意されるまでの四半刻が、コウクガイの自由時間だった。
 彼がその貴重な時間にとぼとぼと肩を落として回廊を歩いているのは、妹の様子を見るためだ。一つ年下の妹、グエンは利発な姫だ。もしかすると、賢さでもコウクガイを超えるかも知れない。だが、講師はついているものの、彼女は学問を強制されていない。だからセツリも彼女の賢さを知らないのだ。知っていたとしたら、比較の対象にグエンも加わっていただろう。
 角を曲がった先に、露台が見える。だが、コウクガイはそちらへは行かなかった。あまり話す機会のない妹を間近で見ても彼女の集中を乱すだけだとわかっているからだ。それよりも、コウクガイがいつも選ぶのはちょうどその反対側の回廊だった。回廊から出て中庭に下りる。大きな木の陰から、コウクガイはじっと向こうを眺めた。
「……」
 護身術の講師は再従兄のホウテイシュウ、教わっているのは妹のグエンと、黒髪が美しい瑞祥だ。楽しそうに笑い合いながら練習している姿はどこか遠い世界のようで心癒される。コウクガイは羨ましささえ忘れてその光景に見入った。
 やがて、彼らも練習を終えたようだ。終了がいつもより僅かに早いが、そういう時もあるのだろう。恐らく挨拶をしているのであろう彼らの様子をぼんやりと眺めていたが、やがてそこを辞した瑞祥が側仕えと共に回廊を歩き始めたので、コウクガイは慌てて中庭から回廊に戻ろうとして、躊躇した。コウクガイが今いるところは、瑞祥が皓月宮へ帰るのなら必ず通るところだ。自分の居室に戻るのなら瑞祥と擦れ違うことになる。そして、コウクガイには瑞祥と正面から向き合う勇気などなかった。
「少し、回り道しよう」
 瑞祥が来る道を行くことになるが、途中で曲がって別方向に進めば構わないだろう。そうと決めたコウクガイは、慌てながらも行儀の悪くならない程度の足取りで回廊を進んだ。これと決めた角を曲がる前に、瑞祥の姿が目に入ってくる。コウクガイは気づかなかった風を装ってさっと角を曲がった。
「……ふう」
 少し進んでから立ち止まり、ため息をつく。自分が小心者であることはよくわかっている。今も、コウクガイの心臓はばくばくと音を立てていた。そしてこんな時、コウクガイは自分の器の小ささが心底嫌になるのだった。
 その時だった。
 ぽん、とコウクガイの肩が叩かれた。
「……っ! え、ええっ」
 驚きに飛び上がって振り返ると、そこには先ほど避けたはずの瑞祥がいた。
「あ……っ、瑞祥にお目にかかれて、」
 慌てて礼をする。瑞祥はそんなコウクガイの反応に目を丸くしていたが、同じように礼を返してきた。だが、口上は一切ない。それを不思議に思っているコウクガイに、彼はそっと扇子を差し出してきた。はっとして帯を見る。帯に差してあったはずの扇を落としていたのか。納得して受け取って初めて、コウクガイは瑞祥が言葉を理解しないことを思い出した。
「ありがとうございます」
 瑞祥は扇子を渡せたことが嬉しいのか、薄い微笑みを浮かべている。
「あの……瑞祥は言葉をご理解されないと聞き及んでおりますが、本当のことでしょうか」
 無礼を承知で問い掛けると、瑞祥は小さく首を傾けた。さらりと、美しい黒髪が揺れる。その時、後からやってきた側仕えが瑞祥を呼んだ。
「サーシャさま、こちらにいらしたのですね。殿下、恐れ入りますが瑞祥は言葉がおわかりになりません。そのことでご無礼なことはなかったでしょうか」
「いいえ、全く。むしろ瑞祥にお会いできたことをとても光栄に思っています」
 答えながら、コウクガイは驚いていた。瑞祥が言葉を理解できないというのは、本当だったのか。
「それは良かったです」
 ほっとしたように側仕えが微笑する。それに合わせるようにこくんとひとつ頷いた瑞祥を見て、ふとコウクガイの心中にある思いがこみ上げてきた。思い切って訊ねてみる。
「……あの、瑞祥を昼食にお招きしてもいいでしょうか」
 側仕えは目を丸くして瑞祥を見てから、はいと返答した。


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