3護身術を教わるのは久しぶりだ。教わったことは全て覚えていたが、身体を動かしていなかった分だけ動きが覚束なくて、徹は感覚を取り戻すことに腐心した。 『だいぶ良くなりましたね』 久々だからなのか、ホウテイシュウの教え方にも熱が入っていた。そんな言葉を掛けられる頃には、徹はへとへとになっていた。下を向いて息をつくと、ぽたりと額から汗が滴って地面に落ちた。手巾で汗を拭い、火照った身体を落ち着かせる。 『少し、休憩にしましょうか』 『そうね。ナナイがお茶を用意してくれているはずよ』 グエン姫は至極冷静な口調でそういったが、その表情は今にも手を叩いて喜びそうだ。 『妾、ナナイを手伝ってくるわ』 そう言って先に歩き出したグエンを見送った徹に、ホウテイシュウが少し気まずそうに微笑んだ。 『サーシャさま、先ほどは失礼なことを訊いてしまって申し訳ありませんでした』 「失礼な、こと?」 他人の目がないのはわかっていたので、徹は素直に首を傾げてホウテイシュウを見上げた。美しい長髪をさらりと揺らし、彼が頷く。それを見て先ほどのホウテイシュウからの問いかけを思い出した徹は、少しばかり照れくさくなって苦笑した。 「いいえ。お気になさらないでください」 『……こうして護身術をお教えするのも久しぶりですね。天上では、お元気に過ごされていましたか? 本日の指導の際にも気づきましたが、少しお痩せになったようです』 「はい。少し痩せたようです。ライソウハにも言われました」 ゆっくりと歩き出しながら、ホウテイシュウが問いかけてくる。そうやって二人とも前を向いたまま言葉を交わす。 『そうでしたか。しかし、体力はそれほど落ちていないようで安心いたしました。今後も五日に一度でよろしいですか?』 「はい、よろしくお願いいたします」 のんびりといつもの露台に向かう。以前から時々あったことだが、グエンはお姫さまだというのに台所に興味があるらしく、ナナイがお茶を淹れるのを手伝うことを好む。慣れないグエンが熱湯で火傷しないように気を遣うからだろうが、やたら時間がかかるので、そんな時二人はことさらゆっくりと歩くことにしている。 『ああ、いい香りですね。……グエン姫?』 お茶の爽やかでほのかに甘い香りに頬を緩めたホウテイシュウが、グエンを見て不思議そうな声をあげた。いつもなら遅かったわね、くらい言うはずのグエンは、妙に硬い表情をその可愛らしい顔に張りつかせていた。 どうかしたのかと声をかけたくなるのを堪え、徹はじっと彼女を見つめた。平坦な表情を心がけているのだろうが、今にも泣き出してしまいそうだ。小さな桜色の唇がふるふると震えるのを見て、徹はそっとグエンの細い手を取った。 それにはっとした様子でグエンが徹を見る。その顔に、作ったような微笑みが乗った。 『……今日はお席がひとつ多いでしょう。これからお母さまもいらっしゃるの』 『おや、それは珍しいですね』 前王太子妃の名を聞いて、徹は少しだけ身体を硬くした。月光を人の形にしたような、儚く綺麗な人。徹たちが護身術を学んでいるのを見に来たコウライギに、そっと寄り添っていた人だ。 言葉がわからないことになっていて良かった。何も言わなくていいからだ。もしも徹が発言を求められたとしても、きっと何も言えなかっただろう。 何故なら、徹は彼女を恐れていたからだ。彼女がコウライギに寄り添っていた時、彼を奪って行かれそうだと思ったその直感を、徹は未だに捨てられずにいる。 『皆さん、もうお揃いでいらっしゃるのね』 鈴の鳴るような声をかけられ、徹たちはそちらを見やった。外に比べれば少し暗い室内から、柔らかな光を集めたような人がゆっくりと進み出てきた。その後ろには、お茶と茶菓子を載せたお盆を持ったナナイが続いている。 お互いに礼をとり、小さなテーブルを囲む。給仕するナナイに会釈をして、徹はセツリをじっと見た。相変わらず美しい人だ。 セツリはホウテイシュウの従叔母にあたると説明されている。少し離れているとはいえ血の繋がった彼らは徹が見蕩れるほどの優美な美しさをそれぞれ持っていて、そんな人たちに囲まれるとため息が出そうだ。 だが、それよりも徹にはグエンのことが気になった。何か気にかかることがあるのか、陶器のような頬が僅かに俯いている。成長すれば母であるセツリによく似た美人になりそうな彼女は、両手に茶杯を持ったままじっと何かを考え込んでいるようだった。 セツリが同席していたからか、お茶の時間は普段よりもずっと静かに過ぎていった。 その後に再開した護身術の練習が終わり、徹はホウテイシュウたちに挨拶をして綺霞宮を後にした。 グエンが後ろから追いかけてきたのは、その時だった。 『サーシャさま、お待ちになって!』 珍しくぱたぱたと駆けてきたグエンに驚きながらも足を止める。 『何かお話があるようですし、少し離れてお待ちしますね』 ライソウハが断りを入れて回廊の少し先へ移動する。徹が言葉を話せないことになっているのを忘れてしまったのだろう。苦笑しながらグエンの方へと歩を進める。すぐに追いついてきたグエンが、ひとつ礼を取った。 『お引き留めしてごめんなさい、サーシャさま。でもね、妾、わかってしまったの』 何をだろう。問い掛ける視線を投げた徹を見て、グエンが無邪気な笑みを浮かべた。小さな声でそっと囁く。 『サーシャさまは、妾たちの言葉がおわかりになるのよね』 「……!」 まさかこんなにも早く見抜かれるとは思わなかった。確かに、あまり顔を合わせない人々ならともかく、グエンにはいつかばれてしまう気はしていた。だが、徹がこの王宮に帰ってきてから会うのはまだ一度目だ。息を呑んで固まった徹に、グエンが年相応の得意げな笑みを見せた。 『サーシャさま、そうやって反応なさるのは言葉がおわかりになる証拠ですわよ』 クスクスと笑うグエンの表情には先ほどの陰はない。困ったように苦笑するしかない徹は、次に真剣な目を向けられて戸惑った。周りを見回したグエンが声を潜め、徹に耳打ちする。 『杞憂だといいのだけれど……サーシャさま、お願い。陛下にお伝えして。お気をつけてと』 「コウライギに……?」 『ええ。……お引き留めしてごめんなさい、サーシャさま、この手巾をお忘れになっていらっしゃいましたよ』 今度ははっきりとした声でそう言い、グエンは明らかに徹のものでない手巾を彼に渡した。先ほどの会話は秘密にしておきたいということなのだろう。 徹は躊躇いがちに頷いて、腹部だけ赤い色をした濃緑色の鳥が刺繍された手巾を受け取った。 |
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