2


 天上から再び降臨したサーシャさまに会うのは五日ぶりのことだ。昨日はサーシャさまに会えるからとグエン姫が大喜びしていたが、どうやら興奮しすぎて眠れなかったらしい。眠たげに落ちてくる瞼を何度も擦りながらそわそわとサーシャさまを待つ様子が可愛らしかった。
「ホウテイシュウ、サーシャさまは今日いらっしゃるのよね?」
「ええ、いらっしゃいます。もう間もなくお着きになるはずですよ」
 内心の興奮を悟られまいとしてか、わざとツンと顎を上げて問い掛けてくる。そんなグエンを見ているとついつい笑い出してしまいそうで、ホウテイシュウは努めて真面目な表情を作って頷いた。
「先日サーシャさまが皓月宮にお招きくださったと聞きましたが?」
「そうなの。でもお母さまと兄上に来客があって行けなかったのよ」
 肩を落としたグエンを見ながらホウテイシュウは内心に疑問を浮かべた。
 前王太子が逝去して以来、前王太子妃であるセツリが表に出る機会は格段に減った。確かに彼女の第一子であるコウクガイ王子は次の王に目されているが、まだ立太子が済んでいないので今後どう変わるかはわからない。そして前第二王子の遺児であるコウレキスウ王子はコウクガイより二歳年嵩で、なおかつ既に才覚を現している。だから、セツリを通じてコウクガイに擦り寄る輩の数もそれに応じて二分されているのだった。
 そんなセツリとコウクガイに来客か。ホウテイシュウはちらりとグエンの様子を窺う。
「最近はそういうのは少なくなったと思いましたが……」
「そうみたいね。でも、陛下が次の王には兄上をと言ったのでしょう? 内々にされていたと聞くけれど、噂は随分伝わっているのよ」
「……そうですか」
 確かにそれなら、耳の早いものがセツリやコウクガイに擦り寄ってもおかしくはない。ただし、サーシャさまが再度降臨される前までなら、という条件つきで。
 サーシャさまが王の許へと帰ってきたことで、コウライギがその座を退くことはなくなった。少なくとも、王子の立太子まではそれが確実だ。コウライギは望んで王になったわけではないが、だからといって国に混乱を齎すつもりもないことをホウテイシュウはよくわかっている。コウクガイ王子が立太子を済ませ、王としての資質を示すまでは、コウライギは少なくとも今後数年間その地位を守り続けるはずだった。
 王位譲渡の噂を聞きつけられる程度の官吏が、それを知らないとは到底思えない。
「あっ、サーシャさまだわ!」
 考え込むホウテイシュウの耳にグエンの歓声が届いた。顔を上げると、ちょうどサーシャさまとその側仕えがやってきたところで、グエンが真っ先に駆け寄って挨拶をしている。年齢よりは大人びて愛読書は歴史書だというグエンが年上の人間に素直に甘えるのは珍しいが、サーシャさまには何の裏もないからだろう。グエンと挨拶を交わし、こちらに会釈をしてから歩み寄ってきたサーシャさまを見つめて、ホウテイシュウは優しく微笑んだ。
「こんにちは、サーシャさま。護身術の講義はお久しぶりでいらっしゃいますね」
 サーシャさまは何も言わずにじっとホウテイシュウを見つめている。その黒い瞳に自分の姿が映る。彼が言葉を理解してくれているということは知っているが、それでも通じていることが奇跡のように思えた。
「そうね、サーシャさま、ホウテイシュウに教わったことはお忘れでないかしら」
 グエンがサーシャさまの手を握ってにこにこ笑う。可愛らしい人形のようなグエンに小首を傾げながら微笑み返すサーシャさまが美しくて、ホウテイシュウはついつい一言口を出してしまった。
「陛下は良くしてくださっていますか?」
 途端に、サーシャさまの頬がうっすらと染まった。グエンが興味深そうにサーシャさまを見て含み笑う。
「あら、サーシャさま、陛下のことはおわかりなのね? お名前を出されただけで照れておしまいになるの? 可愛らしいこと」
『……』
 本人も咄嗟に反応してしまったことを自覚してか、恥ずかしそうに俯いている。そんな彼の姿にホウテイシュウの胸は締め付けられるように痛んだ。名前を出されただけで頬を赤らめることが何を指すのか、わからないはずがなかった。
 自分の発した問い掛けに後悔しながら、ホウテイシュウは弱々しく微笑んだ。


Prev | Next

Novel Top

Back to Index