後日譚・害羞霽日宮でコウライギと過ごした二晩が明けて、迎えに来てくれたライソウハと共に皓月宮の塔に戻ってきた徹は、そこが何ひとつ変わっていないことに内心で喜んだ。 最後までしたのは最初の夜の一度だけだったが、翌日も折に触れては身体を弄られ、そのせいで椅子に座る動作だけでも妙に響くような気がする。ぎこちなく腰を下ろした徹は、そのことをライソウハに気づかれてはいないかと懸念したが、彼にはわからなかったようだ。 そわそわと部屋を見回している徹を見て、ライソウハがお茶を出しながらにっこりと笑う。 『何も変わっていないでしょう? この皓月宮にいる者は皆、サーシャさまがお帰りになるのをお待ちしておりました。無事にお帰りいただけて嬉しいです』 「ライソウハ……ありがとう」 戻ってきたことを何度でも実感してしまって、徹の両目が僅かに潤む。 そっと両手で持って口に運んだ茶は、夏の間に出されていたものとはまた異なって、移動の際に冷えた身体を芯から暖めてくれるような、馥郁とした優しい味がした。 「グエン姫もお元気にしていらっしゃるでしょうか」 問い掛けると、ライソウハは徹のすぐ傍に控えながら首肯した。 『ええ、恙なくお過ごしです。サーシャさまのことをご心配なさっていましたが、次の護身術の講義でまたお会いいただけますよ』 「それは良かったです」 まだ九歳だとは思えないほどしっかりした姫は、きっと徹が消えてしまったことに驚いただろう。恐らく通達はされているだろうが、早く安心して欲しくて気にかかっていた。 『宜しければ遣いを出し、午後にでもこちらにいらっしゃることが出来るかどうかお伺いいたしましょうか』 「はい、お願いします」 ライソウハの気遣いによって笑顔になる。それに嬉しそうに頷いたライソウハがすぐに外で控えている衛士に声を掛けて戻ってくるのを待って、徹はライソウハにも座って貰えるように頼んだ。 『どうかいたしましたか?』 「あの……」 言葉がうまく出てこない。もともと徹はどちらかというと口下手な方だ。だから、学んだ言葉の中からどんな言い回しをするべきか、選ぶのに時間がかかってしまう。 ライソウハは急かすことなく待っていてくれるが、それが申し訳なくてもぞりと身じろぐと、途端に腰の辺りに前日の余韻が掠めて徹は頬をほのかに赤らめた。 「……あの、言葉を少しばかり、教えていただきたいのです」 『ええ、勿論です』 言うと、ライソウハがそんなことかと不思議そうな顔になった。確かに言葉にしてみるとそんなことではある。だが、内容が問題だった。 徹はますます赤くなって少しだけ視線を落とす。 「その、妾(わたくし)が上手く言えないからだと思うのですけれど、言いたいことが伝わらないようです。……例えば、お手を触れないでとお願いすることは、おかしなことでしょうか。妾の発音に問題があるのでしょうか?」 ライソウハが一瞬呆気にとられたような顔になった。 『えっ、お手を触れていただきたくないのは、どこにですか』 反射的に訊き返してしまったライソウハは、次の瞬間には顔どころか耳まで真っ赤にした。それがどんな状況で言われることなのかを察したのだろう。 『も、申し訳ありません! あの、サーシャさま、今の小人(わたくし)の質問にはお答えくださらなくてもっ』 「は、はいっ」 徹も思わず俯いてしまう。きっとライソウハに負けないくらい赤くなっているはずだ。 徹にしてみてもこんなことを彼に聞きたくはなかったが、仮に発音の誤りや単語の覚え違いで伝わらないのだとしたら、誰か第三者に指摘してもらうほかない。 あまりの恥ずかしさに頬がじんじんと熱く、徹は震える手で茶杯を取って一口飲んだ。 扉の辺りから低い笑い声が聞こえてきたのは、その時だった。 『何だ、随分と面白そうなことを話し合っているようではないか』 『へ、陛下!』 椅子から飛び上がったライソウハが慌てて平伏する。同じく驚きながらもそれに倣って、徹は突然現れたコウライギを見上げた。 「コウライギ、……聞いていたのですか」 『いいや、それほど詳しくは聞いていない。そうだな、トールがライソウハに、お手を触れないでと言うのがおかしいのかどうか、問い掛けたあたりだな』 かーっと赤面して、徹は珍しく唇をへの字に曲げた。 「コウライギ、それは最初から聞いていたことと同じです」 『そうかな?』 嘯き、にやにやと少しばかりいやらしい笑みを浮かべたコウライギが近づいてくる。 怒っていることを全面に押し出すべく強く睨みつけるが、どうにもそれが堪えた様子がない。それどころか、楽しそうな笑い声と共にひょいと持ち上げられ、膝に乗せられてしまった。 『うん、やはりトールは軽いな』 言いながらぐしゃぐしゃと頭を撫で回される。長くなってきた髪の毛が視界を掠めたので目を閉じると、その瞼にちゅっとひとつくちづけられた。 『お前の言い方は間違っていない。安心するといい』 優しい眼差しがとても近い。緑とも青ともつかないコウライギの瞳は本当に美しくて、それにぼうっと見惚れてしまう。ぼんやり頷いたところで、ふと彼の言葉の内容に意識が向いた。 「……間違っていないのですか」 『ああ』 「間違っていなかったのに、お手を触れたのですか」 恨みがましい視線を下からじいっと向けると、コウライギが苦笑しながら徹を強く抱き締め、頬にくちづけてきた。 『すまん、トール。お前の制止を無視したのは確かだ。しかし、わかってくれ。普段ならお前の要望も聞き入れられようが、閨でとなるとまた話は別だろう』 「……」 じいっと睨み続ける。唇は勿論への字に曲げたままだ。唇の端にぎゅっと力を入れ、眉もぐっと寄せて、不愉快であることを全面に押し出す。押し出す。 普段あまり表情を大きく変化させないだけに顔の筋肉が引き攣りそうだが、ぐっと堪えて渋面を作り続ける。 とうとうコウライギも降参するつもりになったか、肩を落としがっくりと頭を垂れた。さらさらと金髪が流れ落ちてくる。 『わかった。わかった、トール。……今度からは、なるべくお前の制止には応える』 「……」 なるべくとはどういうことだろう。ここで妥協してはならないような気がして、徹はそろそろ限界を感じながらも引き続き渋面をコウライギに見せつけた。 困り切ったコウライギがぽんぽんと徹の頭を撫でる。 『いやだ、だめだという言葉は、切羽詰まった時に思わず出ることがあるだろう。いちいちそれで止めていたら、困るのは吾(おれ)だけではない。だからこその、なるべくだ』 それを言われると徹にはもはや逃げ道はない。への字にしていたはずの唇が羞恥でわなわなと震え、横一文字になった。 顔を赤くして黙り込む徹の内心を察したのか、彼を腕の中に抱き締めた男がくつくつと低く笑った。 『あまりお前を怒らせないようにする。トール、お前には生涯吾の許に居て貰うつもりだからな。どんなことでもきちんと話し合って理解し合うのが、伴侶というものだろう?』 微笑みと共に言われ、徹はようやく笑顔になって頷き返した。 「はい、妾は生涯コウライギと一緒ですから」 『ああ。愛している、トール』 唇に優しいキスを落とされて、徹はふわふわとした嬉しさでいっぱいになった。 結局のところ、コウライギによって煙に巻かれてしまったことに徹は気づいていない。 相変わらず夜の寝台の中での制止に何の効力もないことを知った徹が今度こそ丸一日唇をへの字にするのは、ほんの数日後のことだった。 |
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