55「初めて、か……」 たった一度の性交に疲れきってしまったトールは、身体を再び湯で清め、寝衣を着付け直して寝台に入れる頃には既にうとうとと眠りに落ちそうになっていた。最中には半ば忘れていた羞恥心に真っ赤になっていたが、それでも眠気には勝てなかったようだ。腕の中で小さく丸まって眠る彼の皓い頬を見下ろしながら、コウライギは彼に与えられたものの大きさを噛み締めていた。 一度失われた瑞祥が戻った記録はなく、憂いのない天上にひとたび戻った瑞祥は二度と地上に目を向けることはないと言われていた。それもそうだろう、この地上では人間の欲望が形をとって他人を傷つける。精神的にも、物理的にも。 コウライギ自身も、そんな人間たちの欲望によって数知れない傷を負ってきた。 『ん……コウライギ……?』 ふと、眠っていたはずのトールがうっすらと目を開けた。射し込む月の光に照らされて、その黒い瞳が濡れたように光る。そこから目を離せなくなりながらも、コウライギは安心させるように微笑んだ。 「疲れただろう、無理をせず眠るといい」 『はい……でも、何だか目が覚めてしまったようです』 もぞもぞと起き出そうとするトールを制し、コウライギは起こしていた上体を彼の傍に横たえた。 「そうだな……では、何か話をしてやる。吾に訊きたいことはあるか」 問い掛けると、目を擦っていたトールがじっとこちらを見つめてきた。表情は薄いが、何か気にかかることがあるような顔だとわかる。気になることがあるが、しかし問い掛けられない。そんな彼を促すように言葉を重ねる。 「何でも訊くといい。お前に問われて吾が答えたくないことなどない」 『ん……』 小さく頷いたトールが擦り寄ってきて、コウライギの胸に頭を乗せる。華奢な彼がそうしても大した重さを感じない。改めて、小さな身体に負担を強いてしまった気がして、コウライギはその背中をゆったりとさすった。 『……妾が初めて恋をした相手はコウライギ、あなたです。コウライギの……初めて恋した人のことを、教えてくれませんか。……どうしてあなたが、嘘を怖れるのかを、知りたいのです』 静かな声だった。 トールの表情は見えないが、きっと不安そうにしているのだろう。そう思うと腕に抱いた細い身体が愛しく、コウライギは目を細めて頷いた。昔の傷が胸の奥で鈍く疼く。それを、ゆっくりと言葉にしていった。 「……幼なじみの女だった。落ちぶれかかった大貴族の娘で、いつも一緒にいた。許嫁だったからな。最初は意識していなかったが、成長するにつれて、吾はその女に恋するようになった。そしてそれでいいのだと思っていた」 『……ん』 トールが頷く。その肯定にも痛みを感じて、コウライギは目を伏せて語り続けた。 「その女は吾に同じ想いを返さなかった。だが構わなかった。いつか彼女は吾のものになる、そう決まっていたからだ。吾は第三王子で、上の兄たちとは違って婚姻を急かされなかった。だから、吾も待っていた。彼女の気持ちが吾に向く日を」 第二王子が亡くなったのはそんな時のことだった。 もともと、王太子が王になれば、第二王子が丞相になるはずだった。第二王子の死によってコウライギには丞相になる可能性ができた。コウライギは兄上の死を悲しんだが、その時になって彼女がようやくコウライギに振り返ってくれた。 コウライギは喜んだ。兄を失った悲しみも忘れるほどに。 「……だが、真実は違った。それはあの女の嘘だった。……あの女には恋人がいた。貴族ですらない、市井の男だった。それを知ったのは、抱き合って死んでいる二人の死体を見つけたのが吾だったからだ。心中だった。……この言葉はわかるだろうか。男を殺して女も死んでいた」 『そんな……』 息を呑む音が聞こえる。コウライギはそんなトールを慰めるように背中を撫で続けた。 コウライギの中で、この傷は既に新しいものではない。腕の中の身体を抱き締めると、小さな手が抱き返してきた。 「吾が何の力もない第三王子のままなら破談にもできただろう。だが、吾が丞相になるとしたら話は違ってくる。落ちぶれかかった家が無理にでもその女に嫁がせようとすることに、吾は気づいていなかった。ただ、その女が吾を愛していると言った、その言葉に舞い上がっていた」 そこまで言って、コウライギは苦く微笑んだ。 「それだけの話だ。馬鹿な話だろう」 『……』 ぽんぽんとトールの背中を叩く。傷つけてしまっただろうか。彼がどんな表情をしているのか、気になりはしても覗き込むことができない。押し殺したため息をついたコウライギは、トールが身体を起こして視線を合わせてきて初めて彼の表情を見た。 コウライギの予想とは異なり、トールは傷ついた顔などしていなかった。ただ、ひたすら透明な眼差しでコウライギを見つめていた。 『妾は、あなたを愛しています、コウライギ』 「……トール」 『嘘はつきません。決して。妾が愛していると言うのは、コウライギ、あなたにだけです』 その時、彼の胸にあったのは喜びだけだった。過去の傷は既に塞がっていた。 これは吾のものだ、コウライギはそう思った。 瑞祥は王のためだけに降臨する。けれどもそれ以上に、トールはコウライギのためだけにこの地上に存在していた。それを紛れもなく確信して、コウライギは言葉を失った。 トール、とコウライギの唇だけが彼の名を呼んだ。声は吐息になって掠れ、その音は彼自身の耳にさえ届かない。その唇にトールが自らの唇を寄せて、そっと重ねた。 柔らかなくちづけはひどく静かで、コウライギの伏せた瞳から一筋の涙が伝った。目を合わせなくても、トールが幸せな笑みを浮かべていることがコウライギにはわかっていた。 トールが彼のものであるように、コウライギもまたトールのものだった。 序・終 |
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