53


 玉座の間から一歩踏み出すと、途端に冷たい風が吹き付けてきて徹は身体を震わせた。元いたところでは秋だったが、こちらはすっかり冬であるらしい。見渡した先にある庭園の木々も、常緑樹と思われるもの以外はどれも葉を落としていて、季節の変化を感じた。
『寒いか』
 言って、コウライギが身体を引き寄せてくる。初めて会った初夏の頃から彼の服装はほとんど変わらないが、彼は寒くないのだろうか。そういえばライソウハたちは暖かそうな服装をしていた気がする。
「コウライギは暖かいですね」
 身体をぴったり寄せるとそれだけで暖かい。笑みを浮かべた徹に、コウライギが微笑みながらも眉を寄せた。
『吾の居室に戻る』
「はい」
 連れ立って訪れたコウライギの私室を見て、徹はしみじみとここに帰ってきたのだと実感した。ここを訪れるのは、初めてこの王宮に連れてこられた日を含めて二度目だ。記憶は朧気だが、彼の部屋は何も変わっておらず、調度品ひとつとってもあの日のままだった。
 部屋にはストーブらしきものも暖炉もないが随分と暖かく、それだけで寒さに強張っていた全身の力が抜ける。特に足元が暖かいように思えるが、床下暖房の一種だろうか。
『湯を用意させてある。使うといい』
 促され、思わず戸惑った顔をコウライギに向けてしまう。ほんの少し外に出ただけで冷え切ってしまった頬に、暖かな掌が添えられる。コウライギが目を細めて微笑んでいた。
『冷えただろう、身体を温めろ。腹は減っていないか? トールが湯を使っている間に食事を用意させるが』
 考えすぎていたことに赤面してしまう。徹はこくりと頷いたまま、顔を上げられなくなった。そう言えば、夕食の支度がちょうど済んだところだったのだ。
 戻らない自分を探して家族は心配しているだろうか。こんなことなら、外に出かけていれば良かったかもしれない。家の中で消え失せてしまった。永久に。たった一言の別れも言えないまま。
 思い出すと涙が出そうで、徹はことさら俯いてそれを隠そうとした。
『泣いてもよいのだ、トール。……吾は、お前から家族を奪ってしまったな』
 ぎゅっと抱き寄せられ、徹は彼の胸で声もなく泣いた。コウライギを選んだのは徹自身だ。それでも、家族に会えなくなったことが寂しくないわけがない。今更のように実感が襲ってきて、徹はひたすら泣き続けた。
 その間じゅう、コウライギは美しい着物が涙で濡れることも構わず、大きな掌で背中を撫で続けてくれていた。
「……申し訳ありません……」
 ようやく顔を上げることができた時、徹の目は真っ赤になっていた。くすりと小さく笑ったコウライギの指先が、目許に残った雫を拭う。
『鼻先まで赤くなっている。……ほら、湯を使うがいい。少しは気持ちも落ち着くはずだ』
 こくりと頷き、徹は促されるまま浴室へと向かった。浴室といってもタイル張りではない。扉を隔てた別室のようなところに巨大な盥のようなものが置かれていて、それがこの国での浴槽らしかった。
 ずっと着ていた制服を脱いで畳み、温かな湯に身体を浸す。泣いたことで硬くなっていた身体が弛緩して、それと共にまた少しだけ涙が零れた。
『上がったか。夕餉の用意はできているぞ』
 ここがコウライギの居室だからか、用意されていた寝衣は徹には随分大きい。何とか袖を折ってみたものの、まるで子どものような格好を恥じながら出てきた徹に、コウライギが笑顔でテーブルを示した。
「ありがとうございます、いただきます」
『ほら、お前はこれが好きだっただろう』
「はい」
 差し出されるままに箸を運ぶ。コウライギは自分も箸を進めながら、こちらをにこにこと微笑みながら見ていた。それが何だか照れくさいような、しかし嬉しいような気がして、徹の頬は染まる。湯から上がったばかりだという理由は彼には通用しそうになくて、なるべく目の前の食事に集中することにした。
 夕食を終えると、コウライギが手を叩いて人を呼んだ。女官たちがしずしずと入ってきて皿を下げていく。それと入れ替わりに入ってきた別の女官が食後のお茶を並べて退出したのを見届けてから、コウライギが徹を手招きした。
「え、あ」
 首を傾げて近づいた徹は、そのまま彼の膝の上に乗せられて顔を赤らめた。
『こんなことで赤くなっていては、後で困るだろうな……』
 低く笑う声が近い。すいと伸ばされたコウライギの手が茶杯を取り、一口飲む。それからもう一口含んで、ゆっくりとした動作で顔を寄せてきた。
「ん……」
 恥ずかしさのあまり顔が熱い。目を閉じると、重ねられた唇からお茶が流し込まれてきた。まだ少し熱いそれはほのかに甘く、溶かし込まれた蜜の味が後を引いた。閉じていた目を開きながら自分の唇を舐める。まだ近くにあったコウライギの顔が再び近づいて、ちゅっと音を立ててくちづけられた。それから舌先で唇を舐められる。思わず開いた唇の中にその舌が入ってきて、徹は喉の奥で小さな吐息を漏らした。
「んぅ、ん……」
 キスをするのは初めてだ。忍び込んできた舌は暖かく、それでやんわりと舐められるのは不思議なほど気持ちがいい。きゅっと舌を吸われて身体がぴくりと跳ねた。
『ふ……』
 顔を少しだけ離して微笑んだコウライギの唇が濡れている。それに魅入られたようになって、徹は今度は自ら顔を近づけてその唇をそっと舐めてみた。
「んっ」
 僅かに伸ばした舌先を食べるように引きずり込まれる。今度はコウライギの口の中で、徹の舌が舐められ甘噛みされた。その度に腰のあたりがびりびりと痺れるような感覚があって、コウライギの厚い胸板にしがみついて耐える。
 ぐっ、と唇を合わせたまま身体ごと抱き上げられ、徹は咄嗟に彼の首に腕を回した。これからどこに連れて行かれるのか、もう訊く必要もない。



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