50サーシャさまが帰ってきてくださった。他の誰でもない、陛下を選んで。それを実感したのはサーシャさまの後ろにあった扉が跡形もなく消え失せてからだった。 最初にライソウハが感じたのは紛れもない喜びだった。感極まったライソウハはぼろぼろと涙が零れてくるのを堪えきれなかった。視界が滲み、熱いものが次々と頬を伝う。 「っよかった、よ、良かったぁ……! でも……でも……」 サーシャさまのことは心配していたけど、天上に危険などあるはずもない。懸念していたのは彼の安否よりも、彼の気持ちだった。果たして陛下を選んでくださるのか、それを心配していた。 最初にこの地上に降臨された時、彼は自ら選択したのではなかったのだそうだ。だから、誰にも言えなかったけれども、彼がいつか天上に帰ってしまうのではという懸念がどこかにあった。 彼にもご家族がいて、そしてその人たちとの離別を悲しんでいる。天帝の遣わす瑞祥だから、自分たち普通の人とは違うものだと思い込んでいた。でも違った。彼もまた、他の人間のように自分の家族や生活を持っていて、そして陛下のためにそれらを捨てたのだ。サーシャさまがご家族に謝罪しながら陛下の胸で泣いていらっしゃる姿にそれを実感する。 家族に二度と会えなくなるつらさをライソウハは知っている。早いうちに両親を亡くし、そして唯一残された肉親であった姉も数年前に亡くした。その度に味わった、心のどこかが抉り取られるような悲哀を、彼は決して忘れない。 瑞祥はきっと、二度と天上には帰れない。それを察しているのはライソウハだけではないはずだ。 彼が二度と家族に会えなくなってしまったことへの悲しみが、喜びの涙に混ざっていく。 「泣くな、ライソウハ」 声を掛けられ、ライソウハは泣きながらいつの間にか俯いてしまっていた顔を上げた。 「セイショウカンさま……で、でも、サーシャさまはもうご家族には……。我はサーシャさまがお戻りになったことを喜ばないといけないのに……」 ぎゅっと抱き込まれるのは何年ぶりだろう。初めて彼に会った時、ライソウハはまだ十歳だった。 暖かな体温に包まれて、ますます涙が止まらなくなる。 「泣くな……」 セイショウカンの唇が音もなく目許の涙を拭う。 「せ、セイショウカンさま……」 彼がするとは思ってもみなかった仕草にびっくりして目を見開くが、セイショウカンはこちらを見て首を傾げている。 へなへなと肩を落とし、ライソウハはため息をついた。驚きで悲しみを一瞬忘れたからか、もう涙は出てこない。まさか解っていてそうしたのだろうかとも思ったが、彼の態度を見る限りではそんなこともなさそうだ。 きっと本人は自覚していない。セイショウカンは、ライソウハが幾つになってもまだまだ保護者のつもりなのだ。それが悔しくて、ライソウハは支えてくれているセイショウカンに遠慮なく寄りかかった。 「……サーシャさまは、陛下をお選びになったのですね……」 瑞祥の背中に回された陛下の腕が、彼をゆっくりと撫でている。泣き止んだのをきっかけにそっとセイショウカンから身体を離し、ライソウハはひとつ決意を固めて周囲を見回した。 義兄のシンシュウランが、ライソウハに寄り添うように立つセイショウカンに不満げな視線を向けてきている。それに苦笑して見せると、怒ったような困ったような表情で視線を逸らされた。 その横に控えるカクウンチョウとは、シンシュウランの部下であるという関係上何度か会ったことがある。相変わらずの飄々とした表情で内心が読めない。 ただ、気になったのは、ホウテイシュウが複雑な表情を浮かべていたことだった。喜んでいいのか悲しめばいいのかわからないとでも言いたげな、途方に暮れた顔をしてコウライギと瑞祥をじっと見つめている。それを怪訝に思ったが、彼はすぐにいつもの柔らかな微笑みを見せた。そのまま前を向いて、サーシャさまと陛下に声を掛ける。 「お帰りなさいませ、瑞祥」 ホウテイシュウに声を掛けられて初めて、サーシャさまは周囲に人がいることに気がついたようだ。 『……っ!』 サーシャさまの頬が、かーっと音を立てそうな勢いで赤く染まっていく。わななく唇が開き、閉じ、それから陛下を見上げていよいよ顔を赤くした。 その様子を可愛らしく思いながら、ライソウハはゆっくりと前に進み出た。まだ頬に涙の痕跡がないか、そっと袖で拭う。心臓は高鳴っているのに、指先はどんどん冷えていく。緊張しているからだと、自分でも自覚していた。 「お、恐れながら、陛下」 震える声で言ったライソウハに、陛下が不思議そうな眼差しを向けてくる。 「陛下に、……申し上げなければならないことが、ございます」 「待て、ライソウハ!」 彼が何を言おうとしているか、いち早く察したのはシンシュウランだった。義兄の制止を無視し、ライソウハは陛下とサーシャさまの前に跪いた。 「陛下。……小人の発言をお許しくださいますか」 「……許す」 サーシャさまの帰還に緩んでいた玉座の間の空気が、ぴりぴりと張り詰めていく。まだ何も語っていないうちから、誰もがこれからライソウハの言う内容が軽いものではないと気づいている。 「ライソウハ……」 王に発言を許された者を遮ることはあってはならない。シンシュウランが悔しげに呟くのを聞きつつも、ライソウハには引き下がることはできなかった。 言葉を口に出す前に、セイショウカンをちらりと見る。理由は解らなくても何かまずい事態であることは解っているのだろう。青ざめたセイショウカンをひと目見てから、陛下に向かって深々と頭を下げた。 「小人は罪を犯しました。……小人は、言葉を理解なさっておられない瑞祥に、陛下の許しなく言葉をお教えいたしました」 誰かが息を呑む音が聞こえた。王の命令に逆らう者は極刑に処される。それが、長く続いてきたこの国の決まりだ。 ぽたり、俯いたライソウハの目から滴った雫が床を濡らした。 |
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