46


 目の前で閉まったドアを見つめたまま、徹は呆然としていた。
 いつも通りの自室のドアはまるで何事もなかったかのようにぴったりと閉じている。部屋の前の廊下に立ち尽くした状態で、徹はぼんやりとたった今起こったことを反芻していた。
 四ヶ月ぶりに見たコウライギの顔は、少し痩せたのかややシャープな印象が強くなっていた。もともとすっと鼻筋の通った意思の強そうな顔立ちだったが、それがより一層研ぎ澄まされたような感じだ。だけど、その顔には同時に色濃い疲労も滲んでおり、それがこの数ヶ月が彼にとって決して楽しいものではなかったことを物語っていた。
 王のために降臨すると言われる瑞祥である徹が勝手に帰ったりして、きっと彼には迷惑をかけた。ライソウハも心配しているだろう。少なくとも、二人とも徹の不在を惜しみ、帰ってきて欲しいと言っていた。改めてそう考えてから、徹は最後にコウライギが放った一言を思い出した。
 彼は、愛していると言っていた。
 じわじわと頬が熱くなっていくのがわかる。
 あの塔にいた時の徹とコウライギとは、言葉も通じていない、意志疎通の成り立っていない関係だった。そして、徹が元の世界に戻ってから、コウライギと過ごしたのとほとんど同じくらいの時間が経った。
 コウライギは、徹に戻ってきて欲しいのだと言った。瑞祥ではなく、徹という個人として。それは徹が口に出来なかったけれど最も強く望んでいたことだ。まだまだ子どもで、人の役に立てるようなことは何ひとつ出来なくて、与えられるものをただ受け取るばかりだった徹を、それでも彼は望んだ。徹の不安や躊躇いを、コウライギはたったの一言で打ち砕いていってしまった。
 今更疑いなんてなかった。枯れかけた草木が水を吸い上げて命を取り戻すように、彼の言葉は徹の中にしみこんだ。
 そっとドアを開ける。ずっと暮らしてきた家の、いつもの自分の部屋。そのベッドに飛び込んで、徹は赤くなったままで彼の名前を呼んだ。
「コウライギ……」
 それが、徹の好きな人の名前だった。
 しばらくそうやってぼうっと彼のことを考えているうちに、頬に差した赤味は徐々に引いていった。まだふわふわと信じられないような気分はあるが、今度は何の証拠も残されていなくても素直に信じられた。
 少し落ち着いてから、もそもそとベッドを離れる。とんとんと階段を下りていくと、居間で本を読んでいた父も、夕食後の片付けをしていた母も、徹を見て心配そうな顔をしていた。
「……心配させてごめん。母さん、さっきの牛乳プリン、まだあるかな」
「ええ、あるわよ。すぐ出すから待っててね」
 なるべく落ち着いて聞こえるように言うと、母がほっとした顔で頷いた。いそいそとキッチンへ向かう背中は、いつの間にか随分小さくなっていた。子どもの頃に比べて自分の身長がかなり伸びたからだとはわかっていても、あの世界で背丈の高い人々に囲まれ慣れていたことを思い出すと尚更小さく見える。こんなに小さな身体の母に心配をかけ、そしていつか近い未来には悲しませるのだと思うと切なかった。
「わたしも一緒にいただこうかしら」
 にっこり笑った母が牛乳プリンを並べ、向かいの席に腰を下ろす。
 両親はどちらも、数ヶ月前の徹に何があったのか訊いてこない。いつも通り学校へ行き、そこで別の世界に迷い込んで四ヶ月を過ごしたとは知らない。ただ、ずっと落ち込んだままの徹を見守り、時に励ましてくれた。
 そんな両親を、徹は残して行く。
 ごめん、父さん、母さん。それでも僕は、コウライギが好きなんだ。
「……おいしいよ、母さん」
 涙が滲みそうになるのを堪えて、徹はそっと微笑んだ。



Prev | Next

Novel Top

Back to Index