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「トール……」
 信じられない気持ちで、コウライギは目の前にいる人を見つめた。玉座の間の中央に突如出現した見慣れない褐色の扉、それを開いたのは、コウライギがもう一度だけでも会いたいと願っていたトールその人だった。
『……コウライギ……』
「トール!」
『……待って!』
 途方に暮れたような顔でこちらを見上げる頬には涙が伝っている。咄嗟に玉座から立ち上がったコウライギは、制止されて動きを止めた。
『来ないで、ください……』
 玉座の前に立ったままのコウライギも、扉の向こうから足を踏み出さないトールも、二人とも無言になる。その間も、彼の真っ黒な瞳からは次々に涙が滴っていた。
 トールが身に纏っているのは、降臨した時と同じ、黒い衣だ。それが少し緩くなっているように見えて、コウライギの胸は痛んだ。迷いも憂いも戦争もないという天上、そこに居る間に彼を悩ませ、苦しめるものがあったとしたら、それはコウライギ自身であるはずだ。それが心苦しい反面、それだけ彼に気にかけて貰えたのかもしれないと考えてしまう。そんな自分が浅ましく、コウライギはそっと目を伏せた。
「少し、痩せたな。……髪も伸びた」
『コウライギも、痩せたよ』
「そうだな……」
 扉があるからだろう。トールはここの言葉を話していないのに、その意味がわかる。あれほど話すことを恐れていたのに、今となっては言葉が通じることに深く安堵していた。
「吾のもとに……帰ってきてくれないか」
 二人の距離は随分開いている。玉座と広間の中央とでは、手を伸ばしただけでは到底届くことがない。二人の間の距離は、そのまま彼らの心を隔てる溝のようだった。
 彼の肩に届く、さらりとした黒髪に触れたい。頬を伝う涙を唇で拭い、安心させるように背中を撫でてやりたい。そう思うのに、どうしても足を踏み出すことができない。
 縋るように呟いたコウライギに、トールが瞳を揺らす。涙で潤んだ高貴な色は美しく、こんな時だというのにコウライギは息を呑んでそれを見つめた。
『何故ですか』
 問い掛けられて、コウライギは言葉に詰まった。彼の問いが、何故帰ってきて欲しいのかを指しているのなら簡単だ。トールにこれからもずっと傍に居て欲しい。人生を共にして欲しい。けれども、彼が言っているのが帰って欲しい理由ではないと、コウライギは既に直感していた。
「トール……」
『何故……言葉を教えてくれなかったんですか。どうして、話してはいけなかったんですか』
「……それは」
 言葉を選ぶことが出来ず、コウライギは表情を歪めた。それは、嘘をつかれたくなかったから、裏切られたくなかったからだ。嘘や裏切りを恐れるのは、つまり、彼を信じられなかったからだ。わかってはいても、どうしてもそれが言えない。口に出してしまったなら、トールを永遠に失ってしまうような気がした。そして、きっとそれは間違っていないだろう。
 だが、だからといって、嘘をつくわけにもいかない。
 苦渋を見せるコウライギの前で、ふら、とトールの足が一歩退いた。扉の向こうへ。この国を守る王であるコウライギには、到底行くことのできない天上へ。
 ぽろぽろとトールの双眸から涙が零れ落ちる。小さく首を振りながら、また一歩、トールが後ろに下がった。
「トール、行くな」
『コウライギ、あなたは……僕を信じていない』
 真実を的確に言い当てられ、思わず息を呑む。その反応こそが彼の言葉を肯定していて、トールは泣きながら儚く微笑んだ。少し長くなった黒髪が、さらりと揺れる。
『あなたが元気そうで良かった。これからも、お元気で。……もう、会うこともないと思います……』
 また一歩、彼の華奢な身体が扉の向こうへと遠ざかる。その姿が滲んで初めて、今やコウライギ自身も涙を流していることに気がついた。
「トール!」
『ここには家族がいて……何もかも捨てるなんて、できない』
 囁くようなその言葉を最後に、誰も触れていないはずの扉がゆっくりと閉じていく。ようやく足が動いて、弾かれたように駆け出した。龍袍が乱れるのにも構わず走り、手を伸ばす。だが、間に合わない。
「行くな、トール! お前を……お前を愛しているんだ!」
『コ……』
 トールが驚いたように目を見開く。何か言いかけたが、その言葉が届くことはなかった。
 指先が空を掴む。
「愛しているんだ……」
 扉は閉じ、コウライギは独り玉座の間に立ち尽くしていた。



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