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「先輩? どうしたんすか?」
 声を掛けられてもいまいち反応できず、徹はぼんやりと目の前のドアを見つめた。この向こう、準備室だと思って開いたドアの先に、見慣れた自分の部屋があった。そこにはライソウハがいて、今にも泣き出しそうな顔で自分を呼んでくれていた。
 硬直するばかりの徹を不思議に思ったのか、ひょいと身体を離した後輩が目の前のドアをガチャリと開いて中を覗き込んだ。思わずハッと息を呑む。
「ありますよ、暗幕」
「暗、幕……」
 恐る恐る覗き込んだドアの向こうは、いつも通りの準備室だった。雑然と積まれた段ボールのひとつに、畳まれた暗幕が入っているのが見える。  先ほどのあれは、何だったのだろう。
 まさか白昼夢だったとは思いたくない。だけどドアは閉じられてしまったし、再び開いてみてもどこにも繋がっていなかった。
「じゃあ俺はこれ運んでおきますね。先輩、あと他に何が必要なんでしたっけ」
 さっさと室内に入って暗幕の収まった段ボールを抱えた後輩がこちらを振り返る。動揺しながらも、徹は手に持ったリストを確認しようとして動きを止めた。
「あ……」
 ない。文化祭のために必要なものを書き出したリストがない。ここに来る前には確かにこの手に持っていたはずなのに。
「ご、ごめん。どこかに……失くした、みたいだ」
「あちゃー。じゃあ俺一回戻って確認してきますね」
「ごめん。頼むよ」
 さして気にした風もなく、にこにこ笑いながら後輩が足でドアを閉める。ぼんやりと後輩を見送ってから、徹は恐る恐るドアノブに触れた。このドアの向こうに、もしかしたらまたあの塔があるかもしれない。
 だが、もう一度開いてみても、ドアの向こうには準備室があるばかりだった。
 落胆のあまり涙が出そうになる。夏休みが終わり、二学期が始まってからも徹の気鬱は晴れることもなく、むしろ悪化する一方だった。思い出せば思い出すほどコウライギのことが恋しくて、今や徹は自分の彼に対する気持ちを自覚していた。
 コウライギが好きだ。保護者としてではなく、兄代わりとしてでもなく、ひとりの男として。
 それについては勿論葛藤したし、動揺だってした。忘れようとさえしたほどだ。だけど、何よりも正直だったのは徹自身の身体で、一度うっかり自慰している最中にコウライギのことを思い出してしまって大変なことになった。終わってみてからあまりの恥ずかしさに身悶えして以来、怖くなって一度も自慰できていない。結局のところ、徹はコウライギに惚れていることを認めざるを得なかった。
 それなのに、あそこに戻れない。つい先ほどその機会があったのに、不注意でチャンスさえ失ってしまった。あそこで躊躇わずに一歩を踏み出していたら帰れたのに。そんな気持ちと相反するように、残される家族はどうなるのかという懸念が徹にあと一歩を踏み出させなかった。例えあのタイミングで後輩が来ていなかったとしても、徹は迷った挙げ句に扉を閉じたかもしれない。
 パリン。
 肩を落とし、来た道を引き返そうとした徹のローファーが、何か小さなものを踏んで割った。びっくりして足をどける。そこに薄水色の陶器の欠片のようなものを認め、信じられない思いで屈み込んだ。
「これ……」
 あの塔でよくライソウハがお茶を注いでくれていた、茶杯の欠片だ。何よりも確かな証拠を掌に乗せて、徹は瞳を揺らした。
 さっきのが夢ではないなら、あそこに帰れるかもしれない。徹はもちろんコウライギに会いたい。だけど、コウライギは徹をどう思っているのだろうか。彼は徹が話すことを望んでいない。言葉を教えることを禁じているということは、会話して、お互いに何を思っているのかを通じ合わせる気持ちがないということだ。
 自分は望まれているのだろうか。ただそこにいるだけでいい瑞祥としてではなく、犬でもなく、佐々木徹というひとりの人間として。
 恋しいのは確かだけれど、あやふやな願いのために飛び込んでいくには捨てていくものが多すぎた。詰め襟の下に隠した首輪に触れる指先が震える。コウライギの気持ちがわからない限り、徹は家族を捨ててまであの腕を掴めない。



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