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 サーシャさまが消えてしまってから、皓月宮はますます静かになった。いつ戻るとも知れない、二度と戻らない可能性の高い瑞祥を待って塔を守る衛士たちの表情は沈鬱で、もともと私語が許されていないとはいえ誰も何も言わなくなった。毎晩の陛下の訪れも絶え、代わりに日中時折ふらりと現れては露台に腰掛けてぼんやりと王宮の風景を眺めていく。しかし、日が落ちてから訪れることだけはなくなっていた。
 ライソウハは瑞祥の側仕えとして王宮に上がった。その職務をなくせば、文官でも武官でもないライソウハが王宮に上がる意義はなくなる。だが、自分の処遇について陛下に問い掛けたことはなかった。それを訊いてしまうことが、瑞祥は二度と戻らないと宣言してしまうことと同義に感じられたからだ。
 だから今日も、ライソウハはいつも通りの時間に起床し、サーシャさまの部屋に誰もいないことを確かめ、部屋の空気を入れ換え掃除をしてから隅に控えて一日を過ごす。
 心配したシンシュウランやセイショウカンからは、そろそろシンシュウランの家へ戻ってはどうかと頻繁に打診されている。それを断り続けて、もう間もなく三ヶ月が経つ。
 何の役割も果たさずに日々を送ることはつらかった。そうしてつらい気持ちで毎日をやり過ごしながら、もしかするとサーシャさまも同じような気持ちだったのかもしれないと想像する。今のライソウハだって、瑞祥の側仕えとしてやれることは全てやっている。だが、世話をすべき瑞祥がいない以上、ライソウハがやれることはただひたすら待つことだけだ。誰の役にも立たないことが、こんなにも虚しくつらいことだと、こうなって初めて実感していた。
 いつものようにお茶を淹れる。瑞祥が消えて以来、ライソウハが用意するお茶は必ず二人分だ。自分と、サーシャさまの分。願掛けのように、ライソウハは瑞祥の分のお茶を淹れ続けている。
「サーシャさま、早くお戻りになってください。陛下も寂しがっておられますが、我も寂しいです、サーシャさま……」
 呟いた声を聞く者はいない。途方に暮れたライソウハの声は、広々とした室内に落ちて消える。
 その時だった。
 気づけば室内に佇むライソウハの前に、見たこともない素材でできた灰色の一枚板のようなものが出現していた。幅はライソウハの身体よりは広く、高さは陛下の身長よりは低いだろうか。暗い褐色のそれの中程には、丸い銀色の金属がついている。
「え……」
 呆然とするライソウハの目の前で、銀色の金属がくるりと回転した。同時に、その大きな一枚板がゆっくりと向こうへと動いていく。
 板の向こうに現れた人が、こちらを見てその瞳を見開いた。お互いに、信じられないものを見ている。
 手から滑り落ちた茶杯が床に落ち、パンと音を立てて割れた。飛び散った破片にすら意識を向けられず、ライソウハは目の前の人をひたすら見つめる。
『ライソウハ……』
「……サーシャ、さま」
 それ以上の言葉が出てこない。寂しかった。帰ってきて欲しかった。誰よりもまず、時折傷ついたような表情で遠くを眺める陛下を安心させてあげて欲しかった。だけど、ライソウハの喉は声を出す役割を忘れてしまったかのように詰まって動かない。
 恐らく扉であろうその一枚板を引いた姿勢のまま、瑞祥もまた何も言えないとでもいうように唇を開いたままこちらを凝視している。サーシャさまの服装は降臨した時と同じ真っ黒で襟の高いもので、それを身に着けている本人は以前よりも随分と痩せて顔色が悪かった。手には白い紙を持っていて、それがはらりと落ちる。
「サーシャさま、ご無事で……陛下がご心配なさっています」
 どうにか一言絞り出す。サーシャさまの表情が一瞬揺らぎ、泣き出しそうなものへと変わった。
『コウライギ……コウライギが、』
『あっ、佐々木先輩っ! ここにいたんですかー! 暗幕ありました?』
『ちょっ……』
 何か言おうとしたサーシャさまの言葉に被さるようにして、扉の向こうから明るい声がした。はっと驚いたサーシャさまに誰かが体当たりしそうな勢いで抱きついて、その衝撃で扉がバタンと閉まった。
「さ、サーシャさま! サーシャさま……!」
 慌てて駆け寄るが、もう遅い。ライソウハの手が届く前に扉はみるみるうちに薄れ、まるで幻のように消えてしまった。わずか一瞬のことだった。
 後に残されたのは、ここ三ヶ月ずっとそうだったように、ライソウハ以外誰もいないがらんとした部屋だけだ。
 元通り静かになった部屋で、ライソウハはへなへなと崩れ落ちた。サーシャさまは何を言おうとしたのだろうか。コウライギのもとへ戻ってはくれないのか。
「サーシャさま……」
 今のは、願うあまりライソウハが見てしまった夢か錯覚だろうか。
 俯いたライソウハの視線の先には、割れた茶杯の欠片と茶が飛び散っている。ぽろぽろと涙を零しながらそれらを拾い集めようとして、その先に見慣れない白い紙のようなものが落ちていることに気がついた。
「これ、は……」
 拾い上げた紙には、見たこともない文字らしき記号が並んでいる。
 これは、サーシャさまのいらっしゃる天上の文字だ。天啓を与えられたように理解して、ライソウハは尚更涙を溢れさせた。
 夢じゃない。夢なんかじゃなかった。サーシャさまは、再び現れてくれた。
「陛下、陛下……!」
 泣きながら笑い、笑いながら泣き続け、ライソウハは紙を握り締めて走り出した。



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