38


 生徒会室に帰ってきたあの日は結局、徹は自分の席に置いてあった鞄から出したジャージを着て帰宅した。
 それまで身に着けていた服を脱いで並べながら、徹は泣き出しそうになっていた。シンプルな筒袖の長い上衣と美しい刺繍がされた袖無しの上着、ゆったりしたズボンに、布製の沓。腰に巻いていた革製の帯には幾つもの玉が嵌め込まれ、窓から射し込む光につやつやと輝いていた。全て、コウライギから与えられたものだった。
 畳み終えた服をジャージの代わりに鞄にしまい込んで、徹はとぼとぼと家に帰った。
 確かに徹はあの王宮で四ヶ月を過ごしたが、こちらの時間では失踪していた訳でも何でもない。誰にも心配をかけなかったことを喜ぶべきなのに、逆にそれが徹に息苦しさをもたらした。いつも通りの家族、いつも通りの同級生、いつも通りの授業。だけど、いつも通りとはどういうことなのだろう。たった四ヶ月で、徹はそれまで自分がどんな風に振る舞っていたのか解らなくなってしまっていた。
 以前はもっと無気力だった。適当に周りに合わせ、親か教師の意見を言われたらそれに従って、誰とも喧嘩しない代わりに誰とも特別親しくない。そんなぼんやりと流されるだけの生活を送ることが、今の徹にはむしろ難しかった。
「……ごちそうさま」
「徹、もう少し食べたら……?」
「ごめん。もうお腹いっぱい」
 帰ってきてから一週間。自分でも、自分の様子がおかしいことはよく解っている。自分でもそう思うのだから、家族なら尚更だ。心配そうに声を掛けてきた母にも、黙っているもののこちらの様子を窺っている父にも、それは伝わっているはずだ。それでも理由を話す気になれなくて、徹は弱々しく微笑んで食器を持って席を立った。
 流しに立って慣れない手つきで洗いながら、そういえば以前の自分は食器を洗ったりもしなかったことを思い出す。王宮でだってこういうことをしていた訳ではない。それなのに、ここに戻ってからの徹は自分でもはっきり理由が掴めないままこうやって家事を手伝ってみたりしている。
「いいのよ徹、お母さんが洗うから」
「ううん、やりたいんだ」
 自分の分と父の食器を持ってやってきた母からそれらを受け取った。ぎこちない洗い方のために食器がカチャカチャと音を立てる。
「手伝ってくれるのは嬉しいけど、あなた最近疲れてるみたいじゃない? 食欲もずっとないし……無理しなくていいのよ」
 徹は手許の食器とスポンジから視線を離し、母の顔を見た。専業主婦だからか相変わらず若々しい母の顔は、ここ一週間ですっかり疲れているように見える。それだけ心配をかけていることを申し訳なく思いながらも、しかしどうしたら元通りに振る舞えるのかわからなかった。
「無理はしてないよ。……やるから」
 視線を手許に戻し、やや俯いて食器を流す。すぐ横から母がじっとこちらを見つめていることは解っていたが、徹はきづかない振りをしてやり過ごした。
「はあ……」
 部屋に戻った徹はばったりとシングルベッドに倒れ込んだ。昼間のうちに洗っておいてくれたのか、シーツや布団からほのかにいい香りがする。だけど、あの塔の寝台はもっと広かった。徹よりずっと体格の優れたコウライギが入ってきてもまだまだ余裕があるくらいには。母の気遣いに喜ぶどころか内心であの塔の広々とした寝台と比較してしまって、徹は再びため息を吐いた。
 今年の四月に高校三年にあがった徹は、来週の生徒会選挙が終われば生徒会役員ではなくなる。そうしたら受験生として受験勉強にうちこまなければならない。いや、今だって受験勉強をするべきなのだ。だけどどうしてもやる気が起きなくて、徹は布団に顔を埋めて丸くなった。
 あの世界が恋しい。自分はここで生まれ育ったし、このままここで暮らしていくのが一番いいはずなのにそう思ってしまってから、ふと徹はあの世界について思いを馳せた。
 自分が暮らしていたあの静かな塔は皓月宮、その塔があったのはコウ国の王宮。では、あの世界は何という名前だったんだろうと考えて、名前があるはずもないことに気がつく。
 この国は日本、この星は地球。だけどそれは国の名前や星の名前であって、世界には名前なんてない。何故なら、世界はもともとひとつしかないからだ。ほかの世界と対比することがないからこそ、固有の名前を持たない。
 そう考えて初めて、自分が二度とあの世界に行けないかもしれないという事実が実感となって徹を襲った。簡単には交錯しない、誰にも認知されていないからこそあの異世界に名前がついていない。
 もしもこのまま、二度とコウライギに会えないのだとしたら。
「……コウライギ……」
 自分は、ここで暮らしていくしかないのだろうか。そう考えるととてつもなく寂しくて、徹は唇を噛み締めてぎゅっと目を閉じた。
 もし、もしも、またあの世界に行くことができたとしたら、自分はこことあちらのどちらを選ぶだろう。本当は、考えるまでもなくここを選ばなければいけない。そのはずだ。だけど、もしコウライギのもとへ行ける機会が巡ってきたら。そうしたら、自分は何もかも捨ててあの手を選ぶだろうか。
 自分で自分がわからない。乱れる気持ちをこれ以上直視していられなくて、徹は部屋の中で独りきり、コウライギの名前を呼んだ。



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