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 瑞祥の不在を、ホウテイシュウは何よりも先に噂で知った。王が鎖に繋いだ瑞祥を連れて歩いている最中に、煙よりも跡形もなく消えてしまったのだという。瑞祥が消失した瞬間を見たと嘯いた使用人を問い詰めると、作り話であったことを謝罪された。だが、その使用人の作り話だけではこうも噂が広まるはずもない。
 遊学から戻ったばかりで何の地位にもついていないホウテイシュウに出来ることは限られている。最後に彼がホウテイシュウと会ったのは四日前。ならば、明日になれば本人が姿を現してくれるはずだ。じりじりと一日を座して待ち、翌日彼は綺霞宮で瑞祥の訪れを待った。
 だが、グエン姫と共に待っていても彼はやって来なかった。代わりに訪れたのは、普段なら瑞祥の傍らをほとんど離れないはずの側仕え、ライソウハだけだった。
 ライソウハから噂が真実であったことを聞かされ、ホウテイシュウは呆然となった。あの瑞祥が、この世界のどこにもいない。叶うはずもない恋心を抱えてでも近くに居られること、五日に一度は顔を合わせ、時にはわずかなりとも触れることの出来たあの人はもういないのか。そう思った時、ホウテイシュウの内心をいっぱいにしたのは寂しさや切なさよりも王への怒りだった。
 瑞祥は天帝が王に与えるもの。その瑞祥が消えたということは、王がその資格をなくしたも同然だ。顔色を変えたホウテイシュウにライソウハが懸念していたが、構わずその場を辞して足早に綺霞宮を出た。
 ライソウハの懸念も、グエン姫の動揺も、何も気にならなかった。
 血相を変えて回廊を進むホウテイシュウを呼び止める者はおらず、彼は霽日宮に足を踏み入れるとそのまま真っすぐ玉座の間を目指した。
 果たしてそこには、コウライギがいた。
「コウライギ……」
 低く抑えた声で呼ばわると、王に拝謁していた官吏たちが一斉にぎょっとした顔でこちらを見た。それすら気にせずつかつかと近づくと、付近に控えていた衛士たちが慌てたように行く手を塞ごうとしたが、それを止めさせたのは王その人だった。
「しかし、陛下……」
「よい。ホウテイシュウは本王の乳兄弟だ。話があるなら聞こう。ホウテイシュウ以外は退出せよ」
「……一如尊命」
 口々に礼をした官吏たちや衛士たちが退出していく。それを冷ややかな目で見送って、ホウテイシュウは王に向き直った。
「我はあなたを見損なった」
「……」
 コウライギは沈黙したままじっとホウテイシュウを見るばかりだ。抑え込もうとする怒りで腹が熱い。
 瑞祥のあの華奢な肩の感触が、見つめる相手の姿を映す黒い瞳が忘れられない。言葉が解らないのだとしても、いつか彼の柔らかな唇で名前を呼んで貰えたらと夢想することすら、今では不可能になってしまった。
「瑞祥は何者も伴わず降臨するもの。家族も友人もない瑞祥が居着けないような真似を、あなたはしたのか! コウライギ!」
 黙っていたコウライギが、ふ、と唇を歪めた。
「……幼少の頃から共に過ごしてきたが、お前が怒るところなど初めて見たな……」
「笑い事か。瑞祥に言葉を学ばせることを禁じ、犬畜生のように首輪をつけ、鎖をつけて引き回したのは、誰でもない、あなただ」
「そうだ」
 怒りに任せて言い放った言葉を、肯定したのはコウライギだ。即座に認めるとは思ってもみずに言葉を失ったホウテイシュウから目を逸らし、彼は目を伏せて苦く微笑んだ。
「吾は認めたくなかったのだ。……乳兄弟のお前と、学友として育ったシンシュウラン。それ以外の人間には決して心を許すつもりなどなかった吾が、トールに心を奪われていたとは、認めたくなかった」
 自嘲するようなその微笑みは、王になる以前の彼がよく見せていたものだった。欺瞞と虚飾に触れる度、人間など嫌いだと呟いた少年の顔が浮かぶ。王位に就く可能性などないのに、なまじ高い地位にあったばかりに辛い思いばかりしてきた少年の、傷ついたその傷ごと握り潰すような表情。王のみが身に着けられる龍袍を纏い、玉座についていても、彼の本質は変わっていなかった。
 かすかに息を呑むホウテイシュウに構わず、コウライギは言葉を続ける。
「吾は王の器ではない。この玉座も、本来は兄上が座るべきだったものだ。だから瑞祥など望むはずもなかったし、実際に降臨されて吾は恐怖した。……吾は弱いのだ、ホウテイシュウ。いつか瑞祥が吾が王としての資質を持たないことを見抜いて天帝の許に帰るのかと思うと、怖くなった……。思えば吾は、最初からトールに惚れていたのだな……」
「……だから、人として接さずに犬扱いしていたと言うのか」
 そうだ、と頷いたコウライギの声は王のものとは思えないほど弱々しかった。ホウテイシュウはつい先ほどまで煮えたぎっていた怒りが行き場をなくしていくのを感じ、唇を噛んだ。
「言葉にしてみても同じこと。もしもトールにたった一度でも嘘をつかれたなら、吾はもう何も信じることが出来ないだろう。……何より、トールの口から吾を拒絶する言葉を聞きたくはなかった」
「……王妃にするのではなかったのか」
 低く問い掛けると、コウライギがようやくホウテイシュウに視線を合わせ、苦しげに微笑んだ。
「それは、吾の望みだ。……トールがそれを受け入れたとはとても思えない」
「……」
 ホウテイシュウは沈黙した。叶わない恋心に苦しんでいるのは彼だけではなかった。瑞祥を手に入れた王であるはずなのに、誰よりも瑞祥に近づくことを怖れている。それが滑稽なようで、悲しかった。



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