36


 玉座の間に誰もいなくなってから、コウライギはほとんどぐったりと言っていい仕草で背もたれに寄りかかった。
 気持ちはおかしいほどに凪いでいる。
 トールが不意に消えてしまってから、既に半日が経過していた。
 何者かに誘拐されたわけではなく、回廊を歩いている最中に煙のように消えてしまった。首輪に鎖までつけてそれを確かに握っていたはずなのに、繊細な金の鎖は中ほどからふつりと断ち切れていた。それはそのまま、トールと自分自身の縁を象徴しているようにも思えて、コウライギは激昂するよりも先に呆然としてしまった。
 瑞祥が突然消えてしまったことは、王宮に大きな波紋を起こした。
 先だっての誘拐事件のような、揉み消せるようなものではない。何よりも、コウライギをはじめとして上将軍のシンシュウランやホウジツ、ライソウハたちですら、トールが消えたことを信じられなかったほどだ。気づいた時には瑞祥消失の噂は王宮中を駆け巡っていた。
 消失。駆けつけたホウジツやシンシュウランがその言葉を使った時、コウライギはたまらない虚無感に襲われた。奪われたのではなく、この手をすり抜けて消えてしまったのだと実感してしまったからだ。
 トールの消失に動揺しながら、しかしコウライギはどこかでその結末に納得もしていた。
「陛下……」
 玉座の真上高くには、玉の嵌め込まれた七星陣が飾られている。ぼんやりとそれを眺めるコウライギに、控えめな声が掛けられた。
「……ライソウハか」
「拝見国王陛下」
 広間の隅の方に所在なさげに佇むライソウハが少し躊躇ってから進み出、静かに袖を払って礼をする。コウライギはそれを黙って見ていた。
「陛下、……陛下に、申し上げたいことがございます」
「……許す」
 促すと、ライソウハは躊躇するように唇を噛み締めてから、そっと口を開いた。
「サーシャさまは、ここしばらく何かにお悩みだったようです」
「悩み……」
「小人も、その原因が何だったのか、先ほどまで解っておりませんでした。いえ、今も解っていないのかも知れません。ただ、サーシャさまの様子がおかしくなったのは四日前からのことで間違いないようなのです」
「……」
 黙ったままライソウハを見る。今年十六の成人を迎えたばかりのライソウハは体格に優れておらず、いかにも頼りなげに見える。その彼よりも更に華奢なトールを任せる上で圧迫感がなくていいだろうと選んだのがライソウハだったが、トールは彼によく懐いていた。彼の細やかな気配りに、トールが安心したような表情を見せたことは一度や二度のことではない。
 瑞祥の側仕えであるとはいえ、本来ライソウハはコウライギに直接話し掛けられるような立場ではない。不安を滲ませていたライソウハは、じっと彼の言葉に耳を傾けるコウライギの態度に励まされた様子で話し続けた。
「四日前、サーシャさまが綺霞宮に行かれてから、徐々に思い悩むようになっていらっしゃったように、小人は思います。……誰かに傷つけられたというよりは、まるで自分自身に失望なさったような印象を、小人は受けました」
「……失望……?」
 ええ、とライソウハは頷いた。
「その理由については、まだこれから調べるところですが……」
「いい」
「え?」
「構わぬ」
 ゆっくりと首を振る。ライソウハが目を見開いたのが視界に入ったが、コウライギはそれ以上彼と視線を合わせなかった。
「トールは瑞祥。その瑞祥が消えたということは、天帝がトールを吾から取り上げたということ」
 これは仕方のないことだ。例え、トールの不在がこんなにも大きな空虚感を齎すのだとしても、世界にたった一人取り残されたような心地になるのだとしても、コウライギにはどうすることもできない。
「しかし、陛下……!」
「もう、よいのだ」
 ため息に似た声色で呟いたコウライギに、ライソウハが声を詰まらせる。しばらく沈黙したライソウハは、やがて諦めたのか静かに退出していった。
 今度こそ、独りきりだ。
 コウライギは金色の睫毛を伏せ、物憂げに微笑んだ。
「……どのみち、トールが吾のもとで幸せであったとは、到底思えない……」
 今はただ、彼の声を聞きたい。縋るような、それでいてコウライギの何もかもを受け入れてくれるようなあの声で、名前を呼んで欲しかった。



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