35


 この一年近くですっかり見慣れた給湯室の、少しくたびれた急須に触れる。まだ熱いそれは、徹がお茶を注いだ時と寸分変わらない位置に置かれていた。習慣で全員分用意してしまったカップの中では、緑茶が沈殿することもなく湯気をあげている。
 夢を、見ていたのだろうか。
 そう思うことは、今まさに身につけている服装が許してくれない。薄い浅黄色の、やや日本の和服に似た裾の長い上衣に、ゆったりした白いズボン。硬めの布で作られた沓(くつ)も、腰に巻かれた帯も、あの王宮で暮らしていた時のままだ。そっと手で触れた首にいつもの首輪があって、それなのに金の鎖は途中でふつりと切れて床に垂れている。
 自分は、戻ってきてしまったのだ。
 もともと暮らしていたところに帰るのが一番いいことであるはずなのに、徹はそんなことを思った。
 自分のカップを手に、所在なく辺りを見回す。給湯室は勿論のこと、覗き込んでみた生徒会室にも相変わらず誰もいない。徹はこの服装をどうしたらいいのか悩みながら生徒会室に足を踏み入れた。
 見たところ、何も変わっていない。自分以外の役員の席に積まれた書類やアンケート用紙の束も、会計の席に転がるキャラクターもののシャープペンも、それに誰かが忘れていった学ランの上着も。何も。
 徹は黙ったまま自分の席へと歩み寄った。湯気をあげるカップをデスクに置き、そこにあるスマートフォンを手に取る。電源ボタンに触れる指先が震えるのを、徹は自覚していた。
 ふっと暗かった画面が明るくなる。画面ロックを解除するまでもなく、そこに表示された日付を、徹は信じられない思いで見つめた。
 六月九日。それは、最後に徹がここにいた日。あの王宮で誰にも祝われることなく過ごした誕生日よりも、二週間も前の日付だ。
 誕生日なんて、とっくに過ぎたはずだった。生徒会選挙はその前日の六月二十三日のはずで、だからきっと自分が行方不明のまま選挙が行われたのだろうと、皆は心配しているのだろうかと、そう思っていたのに。
 急に不安になって首輪を掴む。あの王宮で、徹は四ヶ月を過ごしたはずだった。夢じゃない。夢なんかじゃない。それなのに、ここではほんの五分しか経っていない。
「……コウライギ」
 とっくに馴染んだ名前をぽつりと呟く。何もかもが幻のようにあやふやで、徹は携帯電話をデスクに放り出し、給湯室に駆け込んだ。後ろ手にドアを閉める。ここだ、ここからあそこに出たはずだった。
 給湯室の中で振り返る。このドアを開けた向こうに見慣れた金髪の男がいるような気がして、徹は迷うことなくドアを押した。
「あ……」
 違う。探しているのは生徒会室じゃない。コウライギがいない。
 ドアを閉じる。再び開ける。生徒会室。誰もいない、見慣れた洋風の部屋。
 ふらふらと中央に置かれたソファに腰を下ろす。柔らかなソファに身体が沈み込んで、ああ服が皺になるな、漠然とそう思った。
 しゃら、と指に絡む金の鎖をぼんやり眺める。どうしてだろう、帰って来られたことを喜ぶべきなのに。
「コウライギ……」
 生徒会室の窓ガラスの向こうから、校庭から生徒たちの声が遠く聞こえてくる。いつも、この時間帯はサッカー部が練習をしているのだった。そんな当たり前のことが、今の徹にはとてつもなく不思議だった。
 あの塔、ライソウハに晧月宮という名だと教えて貰ったところは、とても静かだった。広い代わりに全体的に階層は低く作られた王宮にある、唯一の小さな塔。あそこでは、人々の姿は見えても喧騒など伝わってこなかった。官吏たちも使用人たちも、とても静かに回廊を歩き回っていて、徹はいつもそれをあの静かな塔から眺めていた。
 これを望んでいたはずなのだ。家に帰れば家族がいて、生徒会には最近さぼりがちだけど仲間と呼べる人たちがいて、十八年近く暮らしてきた日本に帰ってきた。だけど、何故だかそれを喜べない。
「コウライギ、ライソウハ」
 呼んでも、応える声はない。
「コウライギ……」
 広々とした生徒会室で、徹はひとりぼっちだった。



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