33天帝の遣いである瑞祥は、ここではないどこか他の場所からこの国に来た。 サーシャさまの暮らしていたところでは、国ごとにひとつかそれ以上の異なる言葉を使い、争いが少なく、成人を超えてもなお学業に励むことができるそうだ。まだ学生だった彼はそこに家族や友人を残してたった一人でやって来た。その寂しさ、心許なさはどれほどのものだろう。 一度、躊躇いながらももといた場所へ帰りたくはないかと訊いてみたことがある。その時のサーシャさまは、途方に暮れたような表情で曖昧に頷いたものだ。帰りたいけれど、ここに来た時の扉が消えてしまったから、どうやって帰ればいいのか解らない。そう言われて、ライソウハはやっと彼が迷子であることに気づいたのだった。 家族のもとへ帰りたくないはずなどないのだ。だけど、方法が解らない以上、保護してくれる陛下を頼るほかない。瑞祥は王のために降臨するものだという先入観によって、誰もそこに思い至らなかっただけで。 そんなサーシャさまは、護身術を学び始めてから随分明るくなった。相変わらず表情は薄いが、それでも微笑むことが増えたように思う。特に、大人びてはいるものの少女らしいグエン姫のことは妹のように思っているようで、彼女に話し掛けられている時のサーシャさまは柔らかな微笑を湛えていることが多く見受けられた。彼自身は兄弟を持たなかったそうで、本人から一度、ずっと兄か妹が欲しかったのだと聞いたこともある。 そのサーシャさまは、ここ数日不思議なほど沈みがちだった。 先日、陛下がわざわざ綺霞宮まで足をお運びくださった時、グエン姫は何か落ち込むようなことがあったらしく、サーシャさまが彼女に付き添っていた。それからだ、彼が時折憂鬱そうにぼんやりする様子が目立ち始めたのは。 「サーシャさま。……何か、小人でお役に立てることはございませんか」 今もぼんやりと室内から窓の外を眺めてため息をついているサーシャさまを見かねて、ライソウハは出来る限りそっと声を掛けた。 ふ、と意識を戻したサーシャさまがようやくライソウハを見る。 『妾の? 何故でしょうか、ライソウハ』 直接コウライギと言葉を交わす機会が今後訪れるとは思えないが、ライソウハは彼にそうなっても問題ないような丁寧な言葉遣いを教えてある。彼の気性を表したような柔らかな口調は瑞祥の高貴な姿によく馴染み、耳に馴染みのいい声と相まって彼を一層優美に見せていた。 「ここのところ、サーシャさまは何かお悩みなのではないでしょうか。……小人でよろしければ、せめてお話だけでも聞かせていただけませんか」 ライソウハが真摯に言い募ると、彼はそれ以上誤魔化すことを諦めたようだ。微かなため息を落とすと、視線を伏せて訥々と話し始めた。 『妾は……もともと暮らしていたところでは学生でしたが、まだ基本的なことしか学んでいません。あなたがたのお役に立てる知識もありません。他に出来ることもないのです。妾は、誰のお役にも立てません』 「サーシャさま、瑞祥というものはこの国にいらっしゃることで国を守るものです。無理にどなたかのお役に立とうとする必要はないのではないですか」 なるべく柔らかい言い方を心掛けてみるが、彼は小さく首を振るばかりだ。 『妾には解らないのです。妾は何もしてこなかった。ここでも、何も出来ないでいます……』 その言葉の意味を掴みかね、ライソウハは内心の困惑が表情に表れないように曖昧な笑みを浮かべた。 人にはそれぞれの役割がある。ここでのライソウハが瑞祥の側仕えであるように、サーシャさまは瑞祥であることを求められている。陛下のために降臨した瑞祥は陛下の庇護のもと王宮でつつがなく暮らしていればいいのであって、何か他に役割を求められることはない。瑞祥の待遇についても陛下が決めることであり、サーシャさま本人が悩むべきことはないように思えた。 それでも、ライソウハはそんなサーシャさまの様子を見て漠然とした不安を感じた。誰かに相談した方がいいのかもしれない。シンシュウランがいいだろうか、あるいはセイショウカンが適任か。 黙ってしまったライソウハにたいして瑞祥がそれ以上話を続けることはなく、微かなため息をついた彼はまたぼんやりと窓の外に視線を流した。 |
Prev | Next Novel Top Back to Index |