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 徹がコウライギの指示によってグエン姫と共に護身術を学ぶようになってしばらく経つ。高校の授業で柔道は多少やっていたが、ホウテイシュウに教わるそれはどちらかというと合気道に近いようで、今まで学んだことはあまり役に立っていない。それでも経験くらいは活かせているのか、ホウテイシュウから筋がいいと言われて徹は内心で喜んでいた。
 これまではコウライギに与えられた塔の部屋でただぼんやりと暮らしてきたが、やはり少しは身体を動かすことも大切なのだとわかる。グエン姫の母の宮にある中庭の木陰で、自然に触れながら身体を動かしてみて初めて、徹はコウライギが居なくとも気分が明るくなることを知った。
 九歳にしては随分ませているグエン姫は少しでも気になることがあると周りの人々を質問責めにするが、その分裏表のないさっぱりとした性格をしていて、接していて楽しい。徹が見たこともないほど優美な顔立ちをしたホウテイシュウは、口調や物腰は甘いものの師としてはなかなか厳しく、基礎からしっかりと叩き込まれるうちにやりがいを感じられるようになった。見た目は若々しいが祖母のような位置付けのナナイは親切で、帰りに手作りの焼き菓子をそっと持たせてくれる優しさが嬉しい。
 グエンの母であるセツリ前王太子妃とは初日以来会っていないが、儚い美しさを持った優しげな人だった。今後また会う機会があれば、きっとあの女性のことも好きになれそうな気がする。
『サーシャさま、最近楽しそうにしていらっしゃいますね。やはり、接する方々が増えたのが良かったようですね』
「はい。ありがとうございます、ライソウハ」
 五日に一度の護身術の授業がない日は、いつもライソウハに言葉を教わっている。どうやらここでは近隣諸国も含め、国ごとに異なる言葉を使ったりはしないそうだ。ライソウハに、自分のいたところでは国によって何十種類もの言葉があると伝えたら驚かれていた。それだけに、ライソウハも言語の異なる徹に教える方法を手探りで試していたが、今のところ秘密の授業は順調に進んでいる。
『今日も護身術がありますので、綺霞宮へお連れいたしますね』
「お願いいたします」
 にっこり微笑んだライソウハが先導するのに続いて、徹はすっかり通い慣れた道を進んでいく。
 いつものように綺霞宮の衛士たちに会釈をし、回廊を通って中庭に出る。
『よく来たね、瑞祥』
『サーシャさま』
 師であるホウテイシュウとグエンに笑顔で迎えられ、徹はまず彼らに礼をした。顔を上げたところで、初日以来初めて見る姿に気付く。セツリがあの儚げな微笑みを浮かべて、露台に出した椅子に腰掛けていた。
『前王太子妃セツリさまにおかれましては……』
 徹に代わってライソウハが丁寧に挨拶する。それに倣って礼をすると、セツリがふんわりと会釈を返してきた。
『今日はグエン姫のお母さまもご覧になっていらっしゃるのだから、少し厳しくしてみようかな』
『ホウテイシュウ、普段は厳しくないような言い方をなさるのはどうかと思いますわ』
 涼しい顔で言ったホウテイシュウに、グエン姫が早速噛み付いている。
『ふふ、冗談だよ、グエン姫。……さあ、サーシャさまもこちらへ』
 気心の知れたような二人の遣り取りを穏やかに見守る徹は、ホウテイシュウに手招きされて素直に歩み寄った。
 冗談を言っていた割には普段より特別厳しいこともなく、いつも通り指導される。額に汗を滲ませながら真剣に取り組んでいた徹たちは、やがてナナイがお茶の用意が出来たと告げに来たことで休憩を取ることにした。
『では、休憩にしようか』
『ええ! もう待ちくたびれて……』
 ぱっと表情を明るくして振り返ったグエン姫が沈黙する。釣られて後ろを見た徹は、そこにセツリだけではなくコウライギの姿を認めて息を呑んだ。
 いつの間に来ていたのか、珍しくコウライギが中庭に面した露台にいる。それだけなら徹も動揺はしなかっただろう。だが、そのコウライギに寄り添うように立って彼を見上げるセツリの表情がひどく切なげで、徹は見てはいけないものを見てしまったような心地で目を逸らした。
 咄嗟に見たホウテイシュウはナナイに話し掛けられていて、セツリたちはおろかグエン姫の様子にも気付いていない。
『……妾、少し散歩して参ります』
 ぽつりと呟き、セツリたちに背中を向けて歩き出したグエン姫に驚く。どうしていいか解らなくなり、徹は慌ててその背中を追った。
 木立を掻き分けるようにして進んで行く小さな背中を追った徹は、グエン姫が水辺に辿り着くなりしゃがみ込んでしまったのでそれ以上進めなくなって立ち止まった。
『……妾、お母さまが嫌い』
 そっと近づいたグエン姫の泣き出しそうな表情が、澄んだ池の水に映って揺れている。
『サーシャさまは言葉が解らないのよね。それでも構わないわ、聞いてくださる?』
 話し掛けられても、言葉を理解していることを隠している徹は何も言うことができない。困って沈黙を守っていると、グエン姫が肩を落として呟いた。
『妾、お母さまが嫌い。……確かにお父さまが亡くなってからもう五年経つけど、まだ五年しか経っていないのよ。それなのに、お母さまは陛下を見る度にあんな顔をするんだわ』
 ぽたり、池に雫が落ちる。まだ幼い少女が自分の母を嫌いだとはっきり言ったことに、徹は静かな衝撃を受けていた。先ほどの光景による混乱もまた、彼の気持ちを乱し続けている。例え言葉を発することが許されていたとしても、今の徹は何も言うことができなかった。
『ナナイは、お母さまに言い寄っているのは陛下の方だと言うの。お母さまはそれでお困りなのだって。でも、そうだとしても、あんな風に陛下に寄り添って触れるお母さまは、もうお父さまのことを愛していないのではないの……。それは陛下のせいではないはずよ』
 それきり何も言わず、ただぽろぽろと静かに泣き続ける少女の隣に、徹はそっと寄り添った。
 ライソウハとホウテイシュウが二人の不在に気付いて探しに来た時にはグエンの涙は止まっていたが、徹の内心は千々に乱れたままだった。



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