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「じゃあ、次はこの型をとってみて」
 瑞祥の腕に触れ、そっと動かす。ゆったりとした服の上から見てもほっそりとした身体は、実際に触れてみるとまるで少女のような細さだ。ホウテイシュウは後ろから半ば抱き込むようにして瑞祥を促しながら、そっとため息を押し殺した。
「君は何か武術を嗜んだことがあるのかな。筋がいいね」
『……?』
 語りかけても、瑞祥は言葉を理解していない。不思議そうにこちらを振り返る黒い双眸に微笑んで見せて、ホウテイシュウは身体を離すと頷いた。惹きつけられたように瑞祥を見つめたがる視線を無理矢理離して、すぐ隣で同じ型を構えるグエン姫も見てやる。
「うん、その姿勢だ。グエン姫もよくできているけど、もう少し腰を落として……」
「こうかしら?」
「そう、でもあともう少しだけ体勢を低くしようか」
 歩み寄ってグエン姫の肩に触れ、腰を落とさせる。本物の少女からはふわりと花の香りがするが、瑞祥に触れた時ほど胸が騒いだりはしなかった。
「それじゃあ、今まで教えた型を全て、最初から一通り順番に構えて見せてね」
 言いながら、瑞祥にも伝わるように彼らの前に立って順に型を見せる。ホウテイシュウに従って次々と構えを変えていく二人を見て、彼は美しく整った顔に柔らかな笑みを乗せた。
 コウ国の長い歴史の中にも度々現れる瑞祥というものは、王のために降臨する生き物だと思っていた。王になるはずもないホウテイシュウが瑞祥というものに対してそれほど興味を覚えなかったのは、だから当然のことだった。
 母の故国であるチョウハク国に遊学に出て二年。久しぶりに戻ったコウ国の王宮で、ホウテイシュウは瑞祥が降臨したという話を多くの人々から聞かされた。だが、その時も彼は自分が直接瑞祥に関わるとは思ってもいなかった。乳兄弟であるコウライギから直々に、瑞祥に護身術を教えるように言いつかるまでは。
 ホウテイシュウが瑞祥に会ったのは、従叔母であり前王太子妃でもあるセツリの住まう綺霞宮でのことだ。そこへ父のホウジツに連れられてやって来た瑞祥は、まだ稚いと言っていい少年だった。この国の、いや、どの国の者も持たない黒い色を髪と瞳に惜しみなく纏うその少年は、たった一目でホウテイシュウの心を奪ってしまった。
 五日に一度の頻度で護身術を教えるのも、これでまだ三度目。それなのに、その間にその髪に触れてみたいと何度思っただろうか。様々なものを反射する彼の瞳に自分の姿が映る度に密かに喜び、その姿が綺霞宮から遠ざかる度に悲しみに暮れる。右も左もわからないような少年にすっかり恋をしてしまっている自分が滑稽で、そして何より彼が王のものであると思うほどに切ない。
「いい調子です、グエン姫、……サーシャさま」
 ホウテイシュウの見本に倣って次々と構えて見せた名前を呼ぶ度に、彼の胸は苦しくなる。何よりも、その呼び方が彼と自分自身の関係をはっきりと表している。瑞祥の名前はサーシャ・トールというそうだ。だが、彼をトールと呼んでいいのは王だけなのだ。
「それでは、そろそろ休憩にしましょうか」
 内心の切なさを堪えてホウテイシュウが微笑むと、普段大人びた振る舞いをするグエン姫が小さく飛び上がって喜んだ。
「本当? サーシャさま、妾とお茶にしましょう」
『えっ、あ……』
 グエン姫がぐいぐいと瑞祥の手を取って引いて行く。ホウテイシュウが頷いて見せると、休憩していいのだとわかったのかほっとした顔になる。表情の薄い瑞祥が僅かに見せた微笑みに、ホウテイシュウはぎこちなく笑顔を返す。
 幸薄そうな彼に、王は少しでも優しく接しているのだろうか。ナナイが傍に用意しておいた手巾で首筋を拭う姿を見て、ホウテイシュウはそっと奥歯を噛み締めた。その首に巻き付く首輪が外されたところを、彼は見たことがない。
「グエン姫さま、サーシャさま、お茶の用意が出来ておりますよ」
 優しい声はナナイのものだ。汗を拭ってすっかり淑女らしさを取り戻し、澄ました顔で歩いていくグエン姫のすぐ後ろを、瑞祥がゆっくり着いていく。楽しそうに笑い合うナナイとグエン姫の傍で、瑞祥は黙って微笑んでいる。
「ホウテイシュウ、あなたも早くいらっしゃい」
 グエン姫に呼ばれ、彼は目を伏せて彼らの元へと歩み寄る。
 犬扱いされているという瑞祥の立場を変えるためには、彼はあまりにも無力だった。



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