30


 コウライギを介さずに瑞祥に会うのは初めてだったか。皓月宮を訪れたホウジツは内心でそんなことを思いながら、控えの間で彼を待っている。
「お待たせいたしました、丞相閣下。……サーシャさま、この方はホウジツさまです」
『……?』
 側仕えに連れられて現れた瑞祥が小首を傾げている。見るからに若い側仕えよりも更に小柄な瑞祥は、正確な年齢はわからないが十二、三歳程度だろうか。なるほど、今年九歳になったグエン姫と共に学び始めるにはちょうど良さそうだ。
 瑞祥の誘拐事件があってからちょうど十日目の今日、ホウジツはコウライギの命令で彼を塔から連れ出しに来ていた。相変わらず言葉を理解しない瑞祥に護身術を学ばせるのだという。それよりも言語の方が問題ではないかとは思うのだが、ホウジツの苦言を彼は聞き入れたりはしなかった。
「……国王陛下からの命を受け、既にセツリどのには話を通してある。綺霞宮にはそなたも伴うように」
「かしこまりました。……さあ、サーシャさま、参りますよ」
 叩頭した側仕えが瑞祥を促す。二人を引き連れ、ホウジツは塔の階段を下りて回廊を進んだ。
 皓月宮よりもずっと奥まった場所にある、美しい庭園を持つ綺霞宮は、前王太子妃セツリの宮だ。前王太子が存命だった頃はセツリもまた皓月宮に住んでいた。そこは本来王妃が住まう宮だからだ。しかし、前第二王子が儚くなり、その数年後に前王太子もまたこの世の人でなくなってから、彼女は綺霞宮に退いていた。
 もとは皓月宮の住人であった人を、現在皓月宮に住む瑞祥が訪れる。巡り合わせとは皮肉なもので、ホウジツは瑞祥とその側仕えからは見えないことを解った上で唇を歪めた。近隣諸国と比較しても豊かなコウ国に嫁いだセツリは、今のような結果になることを夢にも思わなかっただろう。
 いずれは王太子妃から王妃となり、この王宮の女主人となるであろう彼女を、当時は誰もが羨んだものだ。それが綺霞宮で静かに長い余生を送ることになるとは、誰も想像すらしなかった。
「美しい庭園ですね、サーシャさま」
 後ろで側仕えが色々と瑞祥に語り掛けるのが聞こえる。ホウジツが振り返ろうとした時、正面から鈴を転がすような明るい声が聞こえてきた。
「まあ、丞相閣下。それに瑞祥と、お付きの方も。お早いお着きでいらっしゃいますのね」
「ナナイ。久しいな」
 しばらくぶりに会う十歳年下の妻の、三十年連れ添ってなお衰えない美しさに頬が緩む。
 今年で四十六になるナナイは、前王太子妃セツリと同じチョウハク国の出身で、セツリとは従姉妹でもある。コウライギの乳母を務めた後はホウジツのもとで暮らしていたが、前王太子が亡くなってから同郷のよしみで請われてセツリの側仕えとなり、既に五年仕えている。綺霞宮からほとんど足を踏み出さないセツリのためにナナイもまた宮からは出ないので、こうして会うのも久しぶりだった。
「ホウジツさまもお元気そうで何よりです」
 あまり日に当たらないためか白い肌には年齢があまり出ていない。その頬に手を伸ばしかけたホウジツは、自分の後ろに瑞祥とその側仕えが控えていることを思い出して咳払いをした。
「セツリさまは既に?」
「ええ。中庭でお待ちしておりますわ」
 ナナイの微笑みから目を離すことを惜しみながら、ホウジツは後ろを振り返った。
「妻のナナイだ。前王太子妃セツリさまの側仕えをしている」
「ナナイと申します。お可愛らしい瑞祥にお会いできて光栄ですわ」
 ナナイに案内され、ホウジツたちは宮の回廊を通って中庭に出た。ナナイに声を掛けられ、露台で寛いでいた女性がゆっくりと振り返る。
 月の光が降り注いで形を取ったような、儚い美しさを持つ彼女こそが、前王太子妃セツリだった。ふわりと、緩やかな曲線を幾つも描く濃い茶色の髪が揺れる。
「初めてお目にかかります、セツリと申します」
 優雅に礼を取ったセツリに見惚れていた瑞祥が慌てて礼を返した。そのくらいは仕込んであるのだな、とホウジツは内心で安堵する。
 同じく安心したような顔で微笑んだナナイが退出していく。ホウテイシュウを呼びに行ったのだろう。
「こちらの方が瑞祥、サーシャさまです。小人はライソウハと申します。サーシャさまはお言葉が不自由でいらっしゃいますので、小人が代わりにご挨拶差し上げます」
「お気になさらず。陛下からも伺っております。この綺霞宮まではるばるようこそいらっしゃいました。……グエン、出ていらっしゃい」
 今にも消え入りそうな笑みを浮かべたセツリに呼ばれ、彼女の陰から少女が姿を現した。ぱっちりと開いた、猫のように切れ上がった目が特徴的なグエン姫だ。
「こちらが妾の娘、グエンです。サーシャさまとご一緒に、ホウテイシュウを師として護身術を学びます」
 紹介するセツリの言葉が終わらないうちに、グエンは素早く瑞祥に近づいた。
「あなたが瑞祥なの? 随分幼いのねえ」
 まだ九歳である自分のことを棚に上げて言うグエンに、瑞祥は首を傾げ、その側仕えは声を出さずに苦笑した。だが、次の瞬間そのほのぼのとした雰囲気は一気に凍りつく。
「お母さまではなくあなたが陛下の王妃になるって本当?」
 ぽかんとしたのは側仕えだけではない。まさかはっきりとそこに触れられるとは思っていなかったホウジツは、慌てて小さな姫の前に跪いた。この場にナナイが居ないことでこれほど困惑するとは思わなかった。
「恐れながら、姫さま。どなたを王妃になさるかは陛下のお心のみがご存知でいらっしゃる」
「でもね、ホウジツ。サーシャさまは晧月宮にお住まいなのでしょう? 晧月宮は王妃の住まう宮なのだということは、妾も知っているわ」
「グエン姫……」
 困りきったホウジツがグエンを窘めようとした時、後ろから足音が近づいてきた。ナナイがホウテイシュウを連れて戻ったのだろう。ほっとして立ち上がったホウジツは、果たしてそこに息子の姿を認めて安堵の息をついた。
「セツリさま、グエン姫、ご機嫌麗しく……そちらにいらっしゃるのは瑞祥でしょうか」
 長い髪を垂らして微笑むホウテイシュウは、妻のナナイによく似た優男だ。泣き黒子のある甘い顔立ちはよく女性に騒ぎ立てられるもので、先日も王宮に戻った途端に女たちが早速色めき立っていた。
 先ほどセツリに見惚れていた瑞祥は、彼の姿に今度こそ絶句している。瑞祥の目にも自慢の息子は美しく見えるのだろうと思うとホウジツとしても鼻が高い。
 ホウテイシュウはまずはセツリ、それからグエンに礼をしてから瑞祥の前に跪いた。
「瑞祥、いえ、サーシャさま。お会いできて光栄です。卑職が今後、サーシャさまに護身術をお教えいたします、ホウテイシュウでございます」
『――、――』
 瑞祥がため息のように零した言葉は、ホウジツたちには理解できないものだった。だが、何を言ったのかはおおよそ想像できる。それはきっと、ホウテイシュウの美しさを賞賛するものだったはずだ。
「申し訳ありません、卑職にはサーシャさまの言葉が理解できないものでして」
 ホウテイシュウが困ったように微笑んだと同時にはっと我に返ったらしい瑞祥が、頬を赤く染めて俯く。傍らに控えていた側仕えの袖を引いて恥ずかしがっている様子は年相応に見え、ホウジツは思わず微笑を浮かべる。
「相変わらず無駄に綺麗な顔よねえ」
 呆れたようなグエンの言葉に、すぐにそれは苦笑に変わった。


Prev | Next

Novel Top

Back to Index