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『こちらのかったは、せいしょかんさまのこにゃくしゃさまです。くちがきっけないのではなしかけたりはしないよに。おきゅへおつれしてけこんのゆーしをえるまで、こちらでふうかほどあーかりいただくよにとしいをいただいています。ていちょにあうかってください』
 瑞祥に与えられた皓月宮に主が戻ってきた。
 シンシュウランによるとサーシャさまは三階の部屋から敷布を結び合わせて作った紐で逃げ出そうとしていたようで、涙ぐんでいたライソウハはそれを聞いて顔を青ざめさせた。お怪我はなかったと聞いても真っ青になったライソウハを見て、言葉はわからないだろうに申し訳なさそうな顔をしたサーシャさまがぺこりと頭を下げたくらいだ。
 そのサーシャさまはというと、三ヶ月以上過ごしてきた部屋に戻るなり、国王陛下の袖を捕まえてしばらく難しい顔をしたかと思うと、たどたどしい言葉で不思議なことを言った。
『こちらのかったは、せい、しょかんさまのこにゃくしゃさまです。くち、が? きっけないので、ていちょに、あーかってください』
 ライソウハとシンシュウランだけでなく陛下までもが呆然とした顔でサーシャさまを凝視していると、首を傾げた瑞祥は伝わらなかったと思ったのか、全く同じことをもう一度話し始めた。
「……トール、言葉が解るのか……?」
 陛下が剣呑な目つきでサーシャさまを見据える。サーシャさまはそんな王を見て不思議そうに首を傾げた。何故彼が怒りを滲ませているのか理解できていない、そんな様子だ。
 ライソウハもまた首を傾げるしかない。セイショウカンには婚約者などいないはずだからだ。
『こちらのかったは……』
 三度目に繰り返そうとしたサーシャさまに、シンシュウランがはっとした顔になった。
「陛下! サーシャさまは、さらわれた時に聞いた言葉を復唱しているのでは……?」
 あっ、とライソウハも口元をおさえた。彼自身は自分が何を言っているのか解っていないのだろう。ただ、聞いたことを伝えようとしているだけで。
 途端に陛下の怒りが霧散するのが、ライソウハにも見て取れた。言葉を遮られたサーシャさまは、シンシュウランと王を交互に見ている。
 陛下が表情を和らげ、サーシャさまの顔を覗き込んだ。
「もう一度話してみろ、トール。もう一度だ。こちらの方は、セイショウカンさまの?」
 促されたことがわかったのか、サーシャさまがゆっくりと先ほどの言葉を述べた。サーシャさまが一言話す度に、王自らが復唱する。
 こちらの方は、セイショウカンさまの婚約者さまです。口がきけないので話しかけたりはしないように。王宮へお連れして結婚の許しを得るまで、こちらで二日ほどお預かりいただくように指示をいただいています。丁重に扱ってください……。
「あ……」
 それは、恐らく誘拐犯の言葉だ。セイショウカンの屋敷にいる使用人たちにそう言って聞かせたことで、彼らは言われた通りサーシャさまを客人として迎えたのだろう。
 サーシャさまと王が並んで座るテーブルの横に控えていたはずのライソウハは、それを聞いて思わず床にへたり込んでしまった。
「ライソウハ」
 シンシュウランに抱え上げられる。義理の兄は珍しく焦ったような表情を浮かべている。
「も、申し訳ありません……何だか気が緩んでしまって……」
 よりによってサーシャさまと王の前で崩れ落ちてしまった恥ずかしさを堪えて顔を上げると、サーシャさまはそれこそぽかんとした顔でこちらを凝視していた。かっと顔が熱くなる。
「陛下。セイショウカンの家人から聞いた内容と一致します。やはりセイショウカン自身は今回の件に関与していないかと」
 俯いてしまったライソウハの背中をぽんぽんと叩きながら、シンシュウランが真面目な声で言うのが聞こえる。
「そうだな。……だが、理解していなかったとはいえ、トールが証言できたと知られるのはことだな」
 陛下が腕を組んで目を細めた。一瞬考えるような素振りをしたかと思うと、すぐさまシンシュウランに言い渡す。
「セイショウカンは吾の許可なしに瑞祥を自宅に招いた。よって、吾は七日間の謹慎を言い渡す。また、今後吾の許可を得ずに瑞祥を連れ出すものがあれば厳罰に処す」
「はっ! ありがとうございます」
 命令を受けて跪いたシンシュウランが深く頭を垂れた。それを満足げに眺めた陛下が、今度はサーシャさまに向き直って微笑んだ。柔らかな、どこか肩の力が抜けたような笑顔だった。
「よくやったぞ、トール」
 ぐいと隣に腰掛けたサーシャさまを抱き寄せると、体勢を崩され椅子からずり落ちそうになったサーシャさまは慌てて王に抱きついた。陛下はすかさずその顎を取って顔を上げさせ、そこに自らの顔を寄せた。
「……は」
 その光景に、ライソウハは思わず声を漏らしてしまった。
 国王陛下がくちづけたのは、サーシャさまの頬だ。それでも、ライソウハは一瞬、陛下が彼の唇にくちづけたのかと思ってしまった。それほど唇に近い位置だったし、何より陛下の浮かべていた表情がそれを想起させた。
 実際には頬だったけれども。
『コウライギ……』
 サーシャさまが頬を赤くして、少し照れたように微笑む。その様子は危うく唇にくちづけられるところだったことに対する羞恥とは違うようだ。それよりも、子どもにするように接された照れくささに見える。要するに決定的な何かが食い違っているのだ。
 あっ、この二人、面倒くさいかもしれない。ライソウハはこの時初めて、二人の関係が飼い主と犬である現状から変化していく予感とともに、その過程がひどく回りくどいものになりそうだとどこかで確信していた。


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