22


 鳥の鳴き声が煩くて目を覚ますと、ようやく夜が明けたところだった。窓から見える空はまだ少し薄暗かったが、徹は見下ろした庭に充分な明るさがあることを確かめてひとつ頷いた。
 朝食にはまだ早すぎる時刻だ。
 昨日の対応から、少なくともこの屋敷の人々は徹を客か何かのように扱うことにしているとわかっている。それなら、まだ眠っていても不自然ではないこの時間帯が脱け出すのに最も適しているのかもしれなかった。
 それでも、使用人たちは既に起き出して働いているはずだ。徹はなるべく大きな音を立てないように気をつけようと決めた。
 目測で部屋から地上までの距離を確かめ、寝台から敷布を剥がす。部屋に設えられている箪笥から予備の敷布を数枚見つけ出せてほっとする。ライソウハが塔の部屋の箪笥に敷布を入れていたのを見た覚えがあったが、この屋敷でもそれは同じだったようだ。なるべく細く丸めたそれらを強く結び合わせる。出来上がった即席のロープを露台の柱にしっかり括りつけた。
 ここは三階だ。落ちてもよほど打ち所が悪くなければ死んだりはしないはずだが、うっかり怪我でもしてしまったら逃げ切れなくなる可能性がある。徹は即席のロープを手に取り、結び目をよく確かめた。
 その時、不意に外がざわめいたのを感じた。
 はっとして耳を澄ませる。ざわめきは廊下の方から来ているようだ。単純に朝の支度のために使用人たちが動いているものとは異なる気がして、徹は全身を硬くした。万が一にでも逃げ出そうとしたことを知られたら、自由を奪われてしまってもおかしくはない。自分は、誘拐されているのだから。
 徹の今いる部屋は、ちょうど玄関の真逆、屋敷の最も奥まったところにある。部屋から見えるのは広々とした裏庭で、もしも玄関の方に徹の身柄を預かりに来た誘拐犯が来ているのだとしたら、やはり裏手に逃げるのが良さそうだ。
 全身に余計な力が入っているのが自分でもわかる。心拍は速く、鼓動の度にこめかみで脈打っているようだ。逆に指先は冷たく、徹は何度も手を握っては開いた。
 準備は整ったが、木登りの経験さえないのに三階の露台から地上に降りることなんてしたことがない。だけど、今を逃したらきっともう機会はない。
 大したことじゃない。ちょっと地上に降りるだけだ。そう自分に言い聞かせるが、今まで周囲に指図されるまま自分では何の判断もしなかった徹にとっては、それだけでも涙が出そうなほど恐ろしい。
 徹は怖じ気づきそうになる自分を叱咤して露台から即席ロープを垂らした。長さは微妙に足りていない気がするが、ゆっくり降りれば大丈夫。そのはずだ。
 しっかりと布地を握り締めて、露台の柵を跨ぐ。柵の反対側に立ってひとつ深呼吸をしたところで、もう一度耳を澄ますと、廊下の方の微かなざわめきが露台に届くほど大きな音になってきているのがわかった。こちらへ近づいているのだ。
 さっと顔色を青ざめさせた徹は、廊下のものとは別のざわめきが前庭の方からもやってくるのを聞き取った。早くしなければ逃げられなくなる。
 ぐ、と握った手に力をこめて、徹は足を露台から離した。素手で掴んだ布のロープは思った以上に滑りやすくて、それだけで身体がずるずると下がっていく。着地する時の衝撃が大きくなりすぎないように、力いっぱい握り締める。
 全身の体重がかかる両手に摩擦による痛みを感じながら、何とか二階の少し下のあたりまで降りてきた。結び目のところで降下が止まる度に、徹は慎重に結び目を避けて布地を握り直した。
 その時だった。
『トール!』
 朝の薄闇を切り裂くように、よく通る声が徹を呼んだ。はっと顔を下に向ける。そこに、徹の求めていた姿があった。
「コウライギ……!」
 自分でも驚くほど、泣きそうな声が出た。武装した衛士たちを引き連れたコウライギもまた、驚いたような顔をしてこちらへと駆け寄ってくる。
「こ、コウライギ……」
 帰りたいと願っていた人の姿を見たためか、緊張が途切れてしまったのか、徹は急に身動きが取れなくなった。必要以上にほっとしてしまったのだろう、もうこれ以上動けない。
 露台から垂らした布地のロープにぶら下がったまま涙目になる徹を見上げ、コウライギが腰から太刀を外して投げ捨てた。こちらに向けて腕を広げる。
『来い、トール!』
 ぶるぶると唇が震える。ぽろりと涙が一粒落ちた。
 徹は小さく小さく頷いてから、ぎゅっと目を閉じて布地から手を離した。
「……っ!」
 ドッ、と身体に衝撃が伝わる。抱き締められていることに気づいて恐る恐る目を開くと、徹は地面に仰向けに倒れたコウライギの上にいた。
「コウライギ、コウライギ……!」
 会いたかった。見知らぬ土地で頼りにできるのはコウライギだけで、その腕の中に戻らなければ安心できないとわかっていた。
『戻ってくる――だったのか、トール。吾のもとへ』
 穏やかな声とともに、未だに震えながら縋りつく徹の背中をコウライギが大きな掌で撫でてくれる。
『首輪を失くしたようだな。……また、新しいものを――。トールは、吾の犬だからな』
「コウライギ、コウライギ」
 優しい声が嬉しくて、徹は彼の大きな身体に顔を押し付けた。
 良かった、迎えに来てくれた。コウライギは徹を捨てたりなどしていなかった。コウライギのところに帰ることができる。また首輪を付けられてもいい、彼と一緒にいられるなら。
 徹にとってコウライギは、ずっと欲しかった兄のような人だから。
『――熱い――』
 いつの間にか近くまでやって来ていたシンシュウランが、地面に転がったままの徹とコウライギを見下ろして呆れたような顔をしている。
 言葉の内容はわからなかったが、何だか恥ずかしくなって徹は赤面した。


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