18


 通された部屋はそれほど大きなものではなかったが、とても居心地のいいところだった。もともとは女性が使っていたのだろうか、調度品や壁に飾られた刺繍などの色味が暖かい。
『こちらは――さまの――のお部屋でございます』
 静かな微笑みをたたえた老人がお茶を出しながら徹に語り掛けてくる。それにあやふやに頷いて見せながら、徹はそっと茶杯を手に取った。テーブルに置かれた水菓子を盛った器と同じ薄い水色の、菊に似た花の紋様が彫り込まれた、綺麗な器だ。
 ここで飲み食いすることに対する躊躇いはあったが、塔から連れ出されて以来何も口にしていない。喉の渇きが気になって、徹は唇を舐めてから思い切って茶を口に含んだ。
 徹自身は無力だ。何かするつもりだとしたら、とっくに力ずくでしているだろう。そう思いながら飲み込んだお茶は、ライソウハが午後に出してくれるものと同じ、爽やかな香りのものだった。
『それでは、ゆっくりとお寛ぎくださいませ』
 老人が一礼して部屋を出て行く。不思議なことに、老人は部屋に鍵をかけていかなかった。しばらく座ったまま誰か来たりしないか待ってみてから、徹はそっと椅子から離れて扉を近くで観察する。鍵は内側についていた。
 再びテーブルに戻ってお茶を飲む。ほう、とため息と共に力が抜けて、これでも緊張していたことを知る。
 コウライギはどうしているだろう。断りもなく連れ出されてしまって、ライソウハは心配しているだろうか。
 もう一口茶を啜り、徹は肩を落とした。もしかすると、コウライギは怒っているかもしれない。彼は徹をペットのように扱っているが、例えば徹の首輪に鎖をつけたりする際に他人にそれを任せたことがなかった。自分のものに手を出されるのは嫌いなタイプなのだろうと徹は予想している。
 そこまで考えて、徹は首輪のことを思い出した。普通の人が首輪をしないのは周りを見てわかっている。あの老人は徹の首輪を見て不審に思わなかったのだろうか。
 首輪に触れようとした指先が直接肌に触れて、徹は小さく息を呑んだ。首輪がない。意識が朦朧としている間に取られたのか。
 コウライギが望んで徹を放り出したのでなければ、彼はきっと怒るだろう。彼は徹につけた首輪がお気に入りのようで、よくそれを撫でていたから。
 お茶を飲み終わって、徹はふらりと窓際に近づいた。外を眺めると、小綺麗な庭園が目に入ってくる。色とりどりの花が咲く、女性が好みそうな庭だ。日が暮れかけて橙色の光が射し込む庭園は、日中には明るく輝くのだろう。この庭園の雰囲気もそうだが、居心地の良い部屋といい、優しそうに振る舞う老人といい、あまり誘拐らしい感じがしない。
 ゆっくりと日が暮れてゆくのを見守りながら、徹は自らについて振り返った。
 生徒会室の給湯室からこの見知らぬ土地に出て以来、徹は流されるままに暮らしてきた。どうやって来たのかもよくわからない徹には、どうやって帰ればいいのかもわからない。家族は心配しているだろうし、学校でも騒ぎになっていておかしくはない。だけど、自分にはどうしようもないことだからと、半ば諦めて日々を送ってきた。犬扱いされていることもわかっていたけれど、権力を持っているように見えるコウライギに逆らおうとは思えなかった。
 もしもこのままコウライギのところに帰れなかったとしたら、自分はここで暮らしていくのだろうか。
 何だかそれが寂しいような気がして、そっと目を伏せる。自分勝手に振る舞うコウライギが近くに居ないことが寂しい。ライソウハの暖かい微笑みが見られないことが寂しい。
「かえりたいな……」
 ぽつりと呟いた声は自分で思っていたよりずっと心許なくて、自分の本当に帰る先はどこなのだろうと徹は考えた。
 どれくらいそうやってぼんやりしていただろうか。すっかり日が落ち、辺りが暗くなった頃に、扉が叩かれる音がして徹は顔を上げた。
『失礼いたします』
 穏やかに言って入ってきたのは、先ほどの老人だ。その後ろには、両手に盆を持った女性が三人ほど続いている。
『夕食をご用意いたしました。お好みがわからなかったので、色々とご用意しましたが、お気に召したものをお召し上がりくださいませ』
 徹に説明する老人の後ろで、女性たちが次々に食器を並べていく。並べ終わった女性から順にテーブルを離れ、部屋に照明を灯していく。老人と女性たちにそれぞれ会釈をして、徹はテーブルについた。
 少なくとも今夜はこの部屋で過ごすことになるのだろう。礼をして出て行く人々を見送ってから、徹は並べられた食事を見つめて俯いた。食欲などまるで感じなかった。
 元いたところへ帰る方法はわからない。見たことも聞いたこともない、まるで魔法のようなやり方で来てしまったからだ。
 だけど、あの塔からこの屋敷に来た方法はわかる。地続きの道を、馬車で来た。道は知らないけれども、あれだけ広い敷地だったのだから、探せばいつか見つけることができるはずだ。
 今は、あそこに帰りたい。優しいのだかそうでないのかよくわからない、あのコウライギのところへ。
 徹は懐にある、毎朝ライソウハが入れてくれていた手巾を取り出し、食事の中から比較的乾いたものを選んでそっと包んだ。夜の闇に紛れて抜け出したところで、自分が迷ってしまいかねない。今夜は一晩大人しくしておいて、明日老人の目が離れた隙にでも外に出よう。
 胸の内で決意してから、徹は箸を手に取った。まずはしっかりと食事をとることだ。
 周りに逆らわずに生きてきた徹がこんな決断をするのは初めてで、ドキドキと胸が高鳴っていた。


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