11


 半年ぶりに訪れた霽日宮で、上将軍シンシュウランは内心の呆れを押し隠して神妙な顔を装っていた。
 上奏文の読み上げを行っている尚書や官吏たちの人数から執務が残り僅かだと解るが、それでも玉座の足元に瑞祥を侍らせていいものではない。見れば、瑞祥はきちんとした衣服を着せられてはいるものの、その裾を崩して床に座らされている。首に巻かれた暗色の革の首輪からは細い金の鎖が伸びており、その先をコウライギが指先で弄びながら政務を執り行っていた。
 今も、シンシュウランが見守る眼前で菓子を手に取ったコウライギがそれを瑞祥に差し出している。どう躾られたものか、瑞祥も逆らうことなく唇を寄せていた。それが本当に飼い犬だとしたらごく当たり前の光景なのかも知れないが、シンシュウランには犬を飼った経験などない。彼にとって目の前に広がる光景は所詮人間が人間に対して餌を与える姿でしかなく、シンシュウランは瑞祥であるサーシャさまがよくそんな屈辱に耐えられるものだと逆に感心せざるを得なかった。自分がそんな扱いをされたとしたら、命を失うことも覚悟の上で反抗するだろうから。
 ひと通り上奏が終わったところで、シンシュウランはコウライギの御前に歩み寄った。袖を払い、跪いて深く頭を垂れる。
「拝見国王陛下」
「許す。立て」
 礼をとったシンシュウランに対して国王陛下が気易いのは、彼が幼かった頃のコウライギの学友だったからだ。こうしてあっさりと起立を許される度、シンシュウランは当時第三王子の学友という立場では成り上がれもしまいと嘲笑されたことを思い出す。第三王子ともども散々馬鹿にされた自分が今や上将軍として軍部の頂点に居るのは、思い返すほど皮肉でしかない。
「陛下におかれましては、この度瑞祥を得られたとのこと……」
「もうよい。シンシュウラン、先だっての蛮族討伐、ご苦労だった」
「はっ」
 褒められて顔を伏せたシンシュウランの上に、コウライギの笑い声が落ちる。
「お前も本王の瑞祥を見に来たか」
「とんでもないことでございます」
 否定しながらも微笑んで見せれば、意図は伝わったようだった。ちょい、と王に招かれてシンシュウランは前に進み出た。
「トール」
 コウライギが声を掛けると、瑞祥がすぐさま立ち上がった。察しがよく従順に振る舞う様は、確かに犬らしいとも言える。
「トール、ほら、そちらへ行ってみろ」
 ゆっくりと言い聞かせるようにしながらシンシュウランを指差してみせる。小首を傾げた瑞祥は、示された通りにシンシュウランに向かって歩いてきた。
 目の前に立ち、こちらを見つめてくる瑞祥の背丈は小さく、衣服の上から見ても随分とほっそりしていることがわかる。義弟のライソウハよりももう少し華奢なのではないだろうか。
「この方がサーシャさまか……」
 伝承の通りの黒髪に黒い瞳をじっと見つめ、シンシュウランは溜め息をついた。記録には多く残されているが、実際に目にするのとでは違う。この世にこれほど深い黒を持つ人間など他にはいないだろう。
 少し信じられないような顔で瑞祥を見つめるシンシュウランに、コウライギが機嫌よく笑った。
「吾の犬だ。なかなか可愛いものだろう」
 途端に、周囲の空気がざわめいた。
 大半の官吏たちは立ち去ったとはいえ、この場にはまだ多くの官吏や武官が残っている。はっきりと瑞祥を侮辱するような言葉に彼らが動揺したことは確かだった。
 なるほど、これは頭が痛いな。陛下はどんなおつもりで瑞祥を犬扱いしているのやら。
 嘆息したくなるのを押し殺し、シンシュウランは何食わぬ顔を装って懐に手を突っ込んだ。
「ちょうど良いことに、北方の珍しい菓子を手に入れました。少しサーシャさまにお渡ししてもよろしいか」
「許す」
 コウライギが肘をついて楽しそうにこちらを眺めているのをいいことに、シンシュウランは懐から小さな包みを取り出して開いた。小さな星を幾つも集めたようなそれは、北方でよく見られる砂糖菓子だ。指先でつまんで差し出すと、興味深げにそれを眺めていた瑞祥はコウライギの許しを求めるようにちらりと視線をやった。
 コウライギが鷹揚に頷いて見せたのに微かな笑みを返し、瑞祥はシンシュウランに一歩歩み寄ってそっと唇を開いた。
 途端に、コウライギの纏う雰囲気が少しばかり硬くなったのをシンシュウランは感じ取った。だが、それには気づかない振りで菓子を差し出す。手を使わずに受け取ることを仕込んだコウライギが悪い。
『ん……』
 黒い睫毛を伏せて瑞祥が唇を開いた。
 シンシュウランは内心でそれを面白がりながら、まずは一粒与えてやる。菓子を口に含んだ瑞祥が嬉しそうに頬を染めて微笑んだ。それに気を良くして、更にもう一粒差し出す。受け取ろうとした唇から赤い舌先がちらりと見えた。彼自身が純粋そうに見えるだけにそれは妙に淫靡で、シンシュウランは口元を緩めて更に菓子を与えた。
『ん、んぅ』
 少し大きめの粒を与えておきながら、わざと指を離さずにいると、瑞祥が菓子ごとシンシュウランの指を咥えて戸惑った顔をした。
 こちらを見上げてぱちりとひとつ瞬きをする瑞祥の唇から指を抜き取りざま上顎を撫でてやる。途端に瑞祥がびくりと身体を跳ねさせたのと、コウライギの怒声が飛んだのはほとんど同時だった。
『ん……っ』
「シンシュウラン!」
「……申し訳ありません。菓子が小さいもので、手許が狂ったようです」
 さっと跪くまでの一瞬で、シンシュウランはその視界にコウライギの怒りに満ちた表情や、瑞祥の驚いた顔つきを捉えている。
「吾を試すつもりか、シンシュウラン」
「恐れ多い」
 先手を打って自らの非を認め、平伏したシンシュウランに対して、これ以上咎めるなら処罰を与えることになる。だが、シンシュウランが処罰の対象になるほどのことをした訳でもない。
 コウライギは的確にシンシュウランの意図を見抜き、ちっとひとつ舌打ちをした。シンシュウランもまた、顔を伏せたまま含み笑いを浮かべる。
「犬は犬だ。変な気を起こすはずもない。お前も余計なちょっかいをかけるな」
「はっ」
「退出を許す」
「はっ」
 シンシュウランは平伏の姿勢で退出しながら、コウライギの内心を手に取るように察していた。回廊に出てから裾を払って礼をとり、王から見えない場所まで来てからようやく立ち上がる。
 回廊を歩きながら、シンシュウランはともすれば口許に上ってきそうになる笑みを堪えた。今頃コウライギは苦虫を噛み潰したような顔をしているのに違いない。
 戻ったら、ライソウハに心配は要らないと伝えてやろう。そう決めて、シンシュウランはとうとう抑えきれなかった微笑をその顔に浮かべた。
 叱責を受けたにも関わらず明るい表情の上将軍を、擦れ違う官吏たちが不思議そうに見ていた。


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