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『サーシャさま、おはようございます』
 爽やかな朝の光が射し込む部屋に、柔らかな声と共に人が入ってくる。徹とほぼ同じくらいの身長の小柄な青年は、かれこれ三ヶ月もの間ずっと徹の世話をしてくれている。優しげな目許に泣き黒子のある、明るい茶髪の青年。最初にコウライギに対する跪礼の仕方を教えてくれたのも彼だ。
 おはよう、と返したくなるのを堪えて徹は会釈した。青年もまた、笑顔でこっくりと会釈を返してくれる。差し出された水盆で顔を洗い、口をゆすぐ。ゆったりとした夜着を脱がされ、服を着替える。
 青年に続いて入ってきた女官がテーブルに食器を並べて退出するのを待って、徹は席につく。すぐ近くに立ったまま控えている青年は徹より先に朝食を済ませているのか、あるいは徹の後に食事をとるのか。気にならない訳ではないけれど、それを問い質したことはない。何故なら、徹は全く言葉がわからないことになっているからだ。
『こちらが――、これが――です。――粥が――。本日の果物は――で、――で採れたものです』
 いちいち解説してくれる青年の言葉は半分以上が理解できないが、逆に言えば半分近くは理解できている。三ヶ月ほどの間に、徹は多くの言葉を覚えていた。
 本当のところ、徹は目の前のこの青年の名前だって知っている。ライソウハという名前を、一度たりとも呼んだことがないだけだ。
 ライソウハがひと通り解説し終わるのを待って、徹は何も理解できていない振りを装って軽く首を傾げる。それから、もう食べても構わないのかと聞きたげに箸を手に取り、じっと彼を見る。ごく小さく嘆息したライソウハが頷いてみせるのも、既に習慣のようになった。
『……おいたわしい』
 その言葉の意味も、徹はわかっている。ライソウハは徹を哀れに思っているのだ。それも当然かも知れない。
 徹がこの塔に連れて来られたのは、コウライギの居室で着替えさせられた直後のことだ。あの部屋を中央として、最初に通った巨大な門を南と考えた場合、徹が今いるこの塔はその北東にある。塔と言っても六階くらいまでの高さしかないが、少なくとも敷地内にあるどの建物よりも高い。
 そして、徹がこの塔に入ってから、敷地の外に出たことは一度もない。恐らくコウライギがそう望んだからだ。
 食事を済ませたところで、また女官が入ってきて食器を片付けていく。それを見守ってから、徹はいつものように露台に出て外を眺め始めた。塔からの見晴らしは素晴らしくて、広い敷地内で忙しく動き回る官吏たちや女官の姿は見ているだけで飽きない。
『サーシャさまは、ここから出たいとは望まれないのでしょうか』
 時々問い掛けてくるライソウハが純粋な優しさからそうしてくれていることはわかっている。だけど、徹はいつもわからない振りをする。
『言葉が通じたら良かったのですけど……』
 寂しそうに微笑むライソウハに、徹は微笑みを浮かべるだけだ。
 ライソウハが言うほど徹は可哀相ではないつもりだ。言葉もわからず、何も出来ない徹は、こうして衣食住を与えられているだけで満足している。自分がどうやってここに来てしまったのかわからないから、尚更だ。帰り方もわからない状態で放り出されていたら、今頃はあの草原で野垂れ死んでしまっていたかも知れない。
 だから、徹は特にコウライギに対して恩義を感じている。
 そのコウライギは、どうやらこれまで徹が見た限りでは誰よりも高い地位にいるようだった。彼が他の人間に命令を出しているところなら数え切れないほど見てきたが、逆にコウライギが誰かに跪くところは見たことがない。
 ぼんやり外を眺めながら、徹は首に巻かれた革の首輪に触れる。この首輪こそ、徹の立ち位置を明確にするものだ。
 多分、自分はコウライギの飼い犬なのだ。
 言葉を教えられないのも、時々首輪に鎖をつけて敷地内を歩かされるのも、コウライギが徹をペット扱いしている証拠だ。愛玩動物に求められる役割を考えれば、徹が取るべき行動もすぐにわかった。愛玩されること、癒やしを提供するとこが徹の仕事だ。そこには決して言葉による口出しは含まれない。徹の従順さがコウライギを安心させられる。
 だから、本当はライソウハが心配する必要などないのだけれど。
 徹がぼんやりしていると、ふと扉の外からざわめきが伝わってきた。
「コウライギ?」
 露台から室内に引き返すと、ライソウハが頷いた。
『グォーワンビーシャがいらっしゃいました』
 その言葉はコウライギの名前の次に覚えた。多分、コウライギの役職名か何かだ。コウライギの他にその名前で呼ばれる人がいないから、それが他と比べてどんな役職なのかはまだわからないけれども。
『トール』
 果たして、扉を開いて入ってきたのはコウライギだった。
「コウライギ」
 笑顔を浮かべて近くに寄り、跪いて三度頭を下げる。立ち上がらされてくしゃくしゃと頭を撫でられ、徹はますます嬉しくなって破顔した。
 コウライギだけが、こうやって何の躊躇いもなく徹に触れてくれる。撫でられるのが嬉しくて首を竦めて俯くと、顎を取られて顔を上げさせられた。小さな子供にするように額に軽く口付けられて、頬が火照る。
『――』
 コウライギが何か言って、それから徹の方を見たままライソウハの名前を呼んだ。
『鎖を持て』
 その言葉はわかる。平伏していたライソウハが複雑な顔をして鎖を出してくるから、すぐに覚えた。
 驚くほど精緻な金色の鎖を喉元の首輪に通されて、徹はにこにこ微笑みながらコウライギに続いて部屋を出た。
 徹にとってコウライギは憧れていた兄のような存在であり、また、飼い主でもある。言うことを聞いて良い子にしていれば、幾らでも優しくしてくれる。多くを求められず、何の役にも立たない徹に飼い犬という役割をくれる。
 そのことに心底安心しながら、今日も徹はコウライギに連れられて広い敷地内を歩く。
 いつか帰り道を見つけるまで、徹は飼い犬の立場に徹することを心に決めている。


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