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 三ヶ月ほど前からコウライギが新しく飼い始めた犬の名前をトールと言う。彼は言語を解さないものの大人しく従順で、すぐに犬としての自分の立ち位置を覚えた。
 犬といえば、その忠誠心が認められる一方で自主性のなさに対する蔑みがある。人間を犬扱いすることはすなわち侮辱ではあるが、コウライギにはトールを蔑視しているつもりはない。華奢な首に首輪をつけ、自分に絶対服従するように示してやっただけだ。手を上げたことはおろか、声を荒げたことさえない。
 彼に対して特別何かを要求したこともない。暇があれば構ってやり、可愛げを感じれば撫でてやり、手ずから衣服や菓子を与え、夜は同じ寝台に入れ抱き寄せて眠っているだけだ。
 だが、それでも周囲の人々からすると充分すぎるほどの屈辱を与えているように思われるらしい。
 ホウジツが深々と嘆息しながら入ってきたのを横目で認めて、コウライギは筆を走らせながら片方の眉を吊り上げた。
「どうした、ホウジツ」
 叩頭礼を終えたホウジツが、呆れた様子でこちらを見るのももう何度目だろう。案の定、彼は既に何度も触れた話題について話し始めた。ここ三ヶ月で既にお決まりになった、トールの扱い方に関する進言だ。
「わかっているだろうが、サーシャ様のことだ」
「トールは吾の犬だ」
 先んじて言うと、途端にホウジツが渋い顔になった。
「サーシャ様は瑞祥だ。瑞祥は天災を減らし、実りを増やし、国を富ませる」
「そう伝えられてはいるが、実際の効果のほどは気休め程度だな」
「……それはわかっている」
 過去に瑞祥が出現した時期の記録を確認させても、「多少」の域を出ない程度の違いしか見られなかった。そしてそれよりも、瑞祥が死んだ時に起こる災害の方が大きな問題となる。それが事実なのだが、臣民たちは信じたいものを信じるものだ。世間は瑞祥の出現によって国が富むと信じており、確かにそれによって明るい雰囲気にはなっている。
 それをホウジツが知らないはずはない。何しろ、コウライギが過去の記録を調べるように命じた相手であるから。
「しかし大した加護がないからと言って犬扱いしてよいものではない」
「ふん。あれは吾のものだ。どう扱うかは吾の勝手だろう」
「確かにお前の勝手だが、せめて人前での首輪と鎖はやめろ」
「そのどちらもあいつに似合うのがいけない」
 コウライギは嘯いて含み笑う。トールには精巧な首輪を与えて着けさせている。黒い革の首輪は、彼の象牙色の肌によく映えた。気が向けばそこに龍鱗を細かく彫り込んだ金の鎖をつけて連れ歩くのが、ここしばらくのコウライギの気に入りだ。
 トールは納得しているようだし、むしろ安心するような素振りを見せる事の方が多い。首輪に鎖をつける時の、喉元を晒しているにも関わらず安心して任せきった態度がそのことをよく表している。
 それなのに、人々はそんな待遇を受けるトールを憐れむのだ。最も近くでトールに付き添っている側仕えですらそうなのだから、彼らにはよほどの仕打ちに見えるらしい。
 トールがコウライギに対して完璧な服従を示す度、コウライギの胸には静かな満足感が水のようにあふれる。その時の気持ちを反芻するコウライギの口元に抑えきれない笑みが上るのを見て、ホウジツが肩を落とした。
「まさかお前にそんな性癖があるとは、思ってもみなかった」
 途端にコウライギが眉を跳ね上げる。
「でたらめを言うな。吾に人間を鎖で繋ぐ趣味はない」
 逆に目を丸くしたのはホウジツの方だ。ぱっと顔を上げた勢いで、冠の白玉がじゃらりと鳴る。
「コウライギ、まさかそこまでして同衾していないのか」
「同衾はするが、眠るだけだな」
「だが……王妃にすると言っていなかったか」
 重ねて問われ、コウライギはどっかりと椅子の背もたれに寄りかかると、だらしなく肘をついた。
「名目はな。王妃の座が埋まればそこを巡って騒ぎ立てる子女も減るだろうし、セツリどのに再婚を迫る動きも落ち着くだろう。そもそも、白痴よりはいいと言ったのはホウジツ叔父だぞ」
「……それならそれなりの扱いというものがあるだろうに……」
「だから言っているだろう、トールは吾の犬だと」
「コウライギ……」
「堂々巡りだな」
 薄く笑ったコウライギに、とうとうホウジツは音を上げた様子で首を振った。
「ホウジツ、お前に幾ら言われようと、本王はトールの扱い方を変えるつもりはない。以後、トールの首輪についての口出しは禁ずる」
 王として命じられれば、丞相であるホウジツは逆らえない。苦笑しながらホウジツは両袖を払って拱手礼をした。
「一如尊命」
 退出するホウジツを見送ってから、コウライギは手を叩いた。すぐさまやってきた衛士に命じる。
「先触れを。トールの所へ行く」
 直ちに先触れに向かう衛士たちに続いて回廊を歩くコウライギの髪が風に吹かれて揺れる。視界に入った金髪を一束つまみ上げてから、彼はそれを勢い良く後ろへと払った。


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