5


『――』
 先ほどから男が何やら徹に話し掛けてくる。何を言っているのかわからなくて、徹は男が言葉を切ってこちらを見てくる度に首を傾げて見せた。
『――?』
 今度は語尾が上がっているから、何らかの質問だろうか。やはり首を傾げると、男が難しい顔をして腕組みした。
 もしかして、男の機嫌を損ねてしまったのだろうか。
 そう思ってから初めて、徹はまだ男に名乗っていないことを思い出した。言葉が通じなくても、名前くらいは伝えてもいいはずだ。
 それを言い出そうとした徹は、しかし男が不意に立ち上がったので言葉を発する機会を失った。男は彼に倣って立ち上がろうとした徹に向かって「待て」をする。ぱちりとひとつ瞬きをしてから座り直すと、男が微笑んで頷く。なるほど、あの仕草は「待て」で合っているらしい。
 男がテントから出て行くのを視線で見送る。それから、改めてテントの中を見回した。
 彼らはモンゴル遊牧民のような生活をしているのだろうか。だが、それにしてはテントの中に生活感のあるものが見当たらない。パステルカラーの美しい敷物が敷かれているが、他には大きめの革のトランクのようなものが一つあるだけだ。
 敷物に織られた見たこともない植物の紋様を眺めていると、テントの入り口を捲って男が戻ってきた。手には何だかとろりとした薄い薄い空色のコップのようなものを持っている。手渡されたそれには水が入っていて、徹はそれを受け取って一口飲んだ。思っていたより喉が渇いていたのか、ただの水がやたらに美味しくてもう一口飲む。
 それから、徹は男が何も飲んでいないのを見て、一口分残した水を両手で差し出した。男は受け取ったが、単に返されただけだと思ったらしく、すぐに隣に置いてしまった。少しがっかりするが、あまり喋らない徹の意図がうまく伝わらないのはいつものことだ。
『――、――』
 男が徹に向かって何か話している。徹は先ほどのように首を傾げてから、ふと名前を伝えたかったことを思い出した。
「佐々木徹」
 自分を指差して言う。男が言葉を止め、徹をまじまじと見つめた。
「佐々木徹」
『……サッシャークトー?』
 繰り返すと、男が拙い発音で復唱してきた。だいぶ違う。
「ささき、とおる」
『サッシャーキ、トール』
 まだ少し違うが、近づいてきた。それに喜んで根気よく何度か繰り返してみたが、佐々木がどうしてもサッシャーキになるのが何だか気になる。
「徹」
 下の名前だけはかなり上手く発音できているので、徹は早々に諦めてそれだけ呼ばせることにした。
『トール?』
 男が驚いたような顔をした。名前が変わったように思われたのかと思い、徹は小さく頷いた。改めて自分を指差し、名乗る。
「佐々木徹」
 それから、ひとつ頷いて下の名前を名乗った。
「徹」
『――サッシャーキ・トール――、――トール』
 伝わっただろうか。独り言のように何度か徹の名前を繰り返している。徹がじっと見つめていると、金髪の男は納得した様子を見せてから満足そうに頷いた。
『トール』
 どうやら伝わったらしい。安心して微笑むと、男が嬉しそうな顔になった。今度は男の名前を教えて貰えるだろうか。
『――』
 男が何か言って自分自身を指差した。多分それが名前だろうと思って復唱する。
「こーあいぎ」
 男が首を振り、再び同じ言葉を言う。今度はひとつひとつの音を区切って、ゆっくりと。
『コウ、ライ、ギ』
「こー、らい、ぎ」
 男がまた訂正してくる。徹は適当なところで妥協したのに、男には妥協の意図は一切ないようだ。しかも男の名前には不思議なアクセントがあって、音が合っていてもアクセントを間違えると駄目だしされる。慣れない音に戸惑いながらも、何度目かでようやく正しい発音を知った。
「コウライギ」
 男、コウライギが笑って徹の頭を撫でたので、それが正解なのだとわかった。
「コウライギ」
 嬉しくなって呼ぶ度、コウライギが頭を撫でてくれる。ひとしきり徹の頭を撫で続けた彼は、やがて立ち上がると徹を促して先にテントを出た。
 出入り口の重い布を捲り、恐る恐る辺りを見回す。それまで幾つも立ち並んでいたテントはすっかり姿を消し、先ほどまで徹たちが居たもの以外は片付けられていた。
『トール』
 コウライギに名前を呼ばれると何だか安心する。呼ばれて駆け寄ると、また頭を撫でられた。
 コウライギの近くには数人の男たちが跪いている。促されるままコウライギの腕に引き寄せられた徹を示して、コウライギが彼らに向かって徹の名前を言った。恐らく、彼らに紹介してくれているのだろう。
『サッシャーキ・トール。――トール――』
 それから少し考え込む様子を見せ、徹を指差した。
『サーシャ』
 びっくりしてコウライギを見上げる。自身の名前が伝わっていなかったのだろうか。コウライギは宥めるように徹の背中を撫でながら、跪く人々を指差してからその指先を徹に向けた。
『サーシャ』
 それから、自分を指差してその指を徹に向ける。
『トール』
 徹は少し考え込んだ。つまり、彼らは徹をサーシャと呼び、コウライギは徹をトールと呼ぶということだろうか。
『グォーワンビーシャ』
 コウライギが彼らを指差し、その指をゆっくり自分に向けて何か言う。それから、徹を指差してから自分に向けた。
『コウライギ』
 どうやら、それはコウライギの異なる呼び方を示しているようだ。コウライギに異なる呼び方があるように、徹にも異なる呼び方ができたということだろう。納得して頷いたら、コウライギにぎゅっと抱き寄せられて撫でられる。
 意思疎通が上手くいったのが嬉しくて、徹にしては珍しくにっこり微笑むと、コウライギの目がますます優しくなった。幼い子供や可愛いものに向けるような眼差しだ。コウライギは徹より随分年上に見えるし、もしかしたら弟か何かのように扱ってくれるつもりなのかもしれない。
「コウライギ」
 呼んで、徹はそっと彼に身体を寄せた。ずっと憧れていた、兄という存在ができたような気がしていた。


Prev | Next

Novel Top

Back to Index