4


 見渡す限りどこまでも広がっているような緑の海の中で、徹は自分が漂流しているような心許ない気持ちに震えた。
 ここはどこなのだろう。帰れると思った給湯室はどこへ消えてしまったんだろう。そう思うほどあの何の変哲もない給湯室が恋しくて、徹は風に乱されて顔にかかった髪を手で抑えて俯いた。
 小さい頃から感情表現に乏しいと言われていた顔も、この時ばかりは不安をいっぱいに表していたに違いない。何故なら、大柄な背中を屈めて徹の顔を覗き込んだ金髪の男が、少し慌てたような顔つきで徹をぎゅっと抱き込んだからだ。
 思いがけないほど熱い体温にすっぽりと包まれ、ぐしゃぐしゃと犬にするように頭を強く撫でられて、徹は拒絶することも忘れて驚いた。こんなに思い切り他人の体温に触れるのはとても久しぶりだった。徹の身長は生徒会の中では一番高かったから、例えば会長などは徹の頭を撫でる時には必ず彼に屈むように言ったものだ。当然ながら、抱き込まれたりしたことなどなかった。
 ぽかんとして男を見上げる。すると、男は何やら徹にはわからない言葉を話しながら、ぽんぽんと徹の背中を叩いた。
 心配するな。大丈夫だ。言葉はわからなくても、そんなような意図だけは伝わって、徹は何だか不思議な気持ちで頷いた。
『――』
 男が何か言って、一度徹に頷いて見せてから、そっと彼の身体を離す。そうすると、男の周りを囲む他の男たちの姿が視界に入ってきた。彼らは皆それぞれ地面に片膝をついてこちらを見ており、恐らく目の前のこの男の地位が彼らより随分高いのだろうなと徹は考えた。
 一人の男が巨大な馬の手綱を引いて近づいてくる。金髪の男はそれを受け取ると、何の予備動作も見せずにひらりと馬にまたがった。
 ここに置いて行かれるのだろうか。男を引き留めたくて徹は口を開いたが、何を言ったらいいのかわからず、少し迷って再び唇を引き結ぶ。
『――』
 何故だか男は苦笑し、犬でも呼ぶように徹に向かってちょいちょいと手招いた。
 そっと、男に近づく。
『――、――』
 男は徹に何か前置きめいた声をかけると、不意に彼の身体を持ち上げた。
「う、わ」
 驚いても口が回らないのはもともとの性質で、徹は突然馬上に乗せられて物凄く動揺したにも関わらず、男はそれに気づきもしないですぐさま馬を走らせた。
 揺れる。物凄く揺れる。しかも何だか身体がぐらぐらして、徹は慌てて両脚にぎゅっと力を入れて馬から落ちないようにした。背中越しに男の体温が伝わってくるが、馬の駆ける速度は信じられないくらい速く、徹の身体はガチガチに硬直している。正直、ジェットコースターより怖い。手綱を握った男の腕は徹をしっかり抱え込んでいるが、それで恐怖が薄れることはなく、徹は馬が揺れる度に身体を強ばらせた。
 心底恐怖を味わっている様子に気づいているのかいないのか、男は楽しそうに笑い声を上げた。後ろからも複数の足音がするので、恐らく跪いていた男たちもまた、馬で後をついて来ているのだろう。
 馬が駆ける度に辺りの景色は物凄い速度で流れていき、終わりがないと思っていた草原は途切れて森が見えてきた。見たこともないような巨大な木々の立ち並ぶ森だ。テレビで見た屋久杉なんかを実際に見たならきっとあんな大きさをしているのだろう。目に入る全ての樹がそんな大きさをしている。
 しばらく森を走るとそれもまた途切れて、先ほどとはまた違った草原に出た。森から少し離れた見晴らしのいい高台に、モンゴルか何かの遊牧民の移動式住居のようなものが並んでいる。男はその中でも特に大きくて美しい模様が沢山描かれたひとつの前まで馬を走らせてから、ようやく止まってくれた。
『――』
 男が何か言って徹の背中を軽く叩いてから、ぱっと馬から下りた。それからこちらに向かって頷いて見せる。下りろということなのだろうか。男の動作につられて下を見下ろしたが、地面との距離に尻込みする。
『――?』
 徹が躊躇っていると、男もまた徹を見たまま首を傾げた。ちょいちょい、と手招きする。やはり下りろと言っているのだ。
 大丈夫、少し高いけど、怪我はしない高さだ。多分。意を決して恐る恐る鞍から這い下りようとすると、突然男に持ち上げられた。男はびっくりしたような顔をしているが、徹だって驚いている。下ろしてくれるなら最初からそうすればいいのに、突然翻意したのだろうか。
 首を傾げると、男が少し苦笑した。抱き上げられていた身体を地面に下ろされて、また頭をぐしゃぐしゃ撫で回される。だが徹にはそんなことより両脚がぷるぷる震えて立っていることも困難であることに困惑していた。ほんの三十分ほどだったと思うが、馬に跨がっていただけなのにこんなに脚が震えるものだろうか。立っていられなくなりそうで、頭から離された腕を掴むと、男が徹の腰を掴んで支えてくれた。
 そんな男の様子を、何だか様々な彩りの服を着た人々が眺めて目を丸くしているのが、男の背中越しに見えた。そこには男も女もいて、皆それぞれ淡い色の綺麗な服装をしている。金髪の男に付き従っていた男たちは地味な格好をしていたのに、彼らは華やかだ。
 脚は未だにぷるぷるするが、支えて貰って安心すると、徹にもようやく周囲を気にする余裕ができた。何人かの男たちが金髪の男に近づいて話し掛けているのを横目に見ながら、徹は彼らの見たこともないような服装を眺める。金髪の男もそうだが、ここにいる人々は皆色素が薄いのか、透けるような白い肌に栗色や赤茶などやや明るめの色の髪をしている。見た目は西洋人に近いのに、服はどちらかと言うと中華風なのが不思議だ。
 徹が彼らをじっと見ていると、ふと視線を感じた。金髪の男を見上げると、既に話は終わったのか、男に話し掛けていた他の男たちの姿はない。首を傾げると、無表情になっていた男が薄く微笑んだ。そのまま腕を掴まれ、すぐ傍にある大きなテントの中に連れて行かれた。
 やはり力の入らない脚でされるがままになりながら、何となく、これから自分はこの人のところに居るのだろうな、と思った。


Prev | Next

Novel Top

Back to Index