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 狩りに出かけるのはちょうど五年ぶりで、つまり即位してからは初めてのことだ。第三王子だった頃には飽きるほど行った狩りも、数年ぶりともなれば楽しみで仕方がなく、コウライギは初めて参加する少年のように新鮮な気持ちで当日を迎えた。
 狩り場へと発つのは夜の明け切らないうちと決まっている。集まった人数が微行程度に抑えられているのはホウジツの気遣いがあってのことだろう。機嫌よく愛馬に跨がったコウライギは、一行を引き連れて狩り場へと向かった。
 ホウジツの語っていた通り、狩り場は豊かだった。早速何匹もの獲物を仕留め、昼食のために本陣へと戻る。
 久々の狩りで気分がよく、普段なら不愉快になる貴族の子女たちからの賞賛やおべっかも大して気にならない。しばらく囲まれてやってから、コウライギは再び馬上の人となった。
「今日のところはこれくらいにしておくか」
 仕留めた獲物の数に満足したコウライギは、そう言うと獲物を周囲の者たちに任せて馬首をめぐらせた。
「ホウジツ叔父、少し走らないか」
「ああ、付き合おう」
 第三王子時代の教育係であり、前王の実弟でもあるホウジツだけは、人前でコウライギと気易く話しても咎められることはない。笑いながら頷いたホウジツと少数の護衛を連れ、コウライギは開けた草原に向けて馬を走らせた。
「ああ、気持ちがいいな」
 風を切って走る心地よさを楽しみながら、コウライギは晴れ晴れとした気分で笑った。
 王太子であった兄が落馬によって逝去してから、コウライギは何年も馬に乗ることを自粛してきた。それでなくとも現在はコウライギ以外王位につけるものがおらず、臣下たちは彼の身の安全に気を遣いすぎるほど遣う。放任されて自由気ままに生きてきたコウライギにはそれ鬱陶しく感じられたものだが、こうして馬を走らせるだけで日頃の鬱屈が晴れていくようだ。
 しばらく早駆けさせた馬を休ませてから、本陣へ戻るために手綱を引こうとしたコウライギは、ふと遠くに何かが見えた気がして手を止めた。
「陛下、いかがなさいましたか」
 供の者に問いかけられ、僅かに首を傾げる。実際のところ、何が見えたわけでもない。ただ、何か直感のようなものに促されている気はする。
「コウライギ?」
 ホウジツが手綱を操って近くまで来たが、コウライギは遠くをじっと見つめたまま動かない。
「コウライギ、どうかしたのか」
「……あちらに、何かある」
 重ねて問いかけられ、コウライギはぼそりとそれだけ返すと馬の腹を強く蹴った。
「へ、陛下!」
 勢い良く走り出した王を、供の者たちが慌てて追う。何かに急かされるように馬を駆るコウライギに続いて走るうち、彼らの目にも不思議なものが見えてきた。
「これは……」
 見慣れない服を着た黒い髪の青年が、草原のただ中に立ち尽くしていた。その背中の向こうに、陽炎のようにゆらゆら揺れる不思議な空間が広がっている。そこは見たこともないような部屋で、今にも掻き消えそうに揺らいでいた。
 呆然と辺りを見回していた青年がこちらを見る。視線が交わった途端、コウライギは得体の知れない焦燥感に駆られた。
「行くな!」
 青年の目の前まで来たと同時に馬から飛び下りた。こちらに背を向け、今にもその部屋へと戻って行こうとしている青年の腕を掴む。
 驚いたように目を見張る小柄な青年の瞳は、その髪と同じく真っ黒な色彩を持っていた。黒に近い茶色なら存在するが、これほど真っ黒な色を持つ人間など居たためしがあるだろうか。コウライギは信じられない思いで青年を凝視した。
 青年は呆然とコウライギを見つめ返していたが、すぐに身体を翻してコウライギから離れようとした。陽炎の中に戻って行くつもりなのだ。そう悟って、コウライギは力を籠めて青年を引き戻した。
「行くな。吾のもとに留まれ」
 その途端に、不思議な部屋が陽炎のごとく揺らめいて消え失せた。背後を振り返り、陽炎が消えたことに息を呑んだ青年が、腕を掴まれたまま途方に暮れた表情でコウライギを見上げてきた。
「陛下!」
「陛下、今のは……」
 後から追いついてきた者たちもまた、信じられないという表情でコウライギと青年を遠巻きに見つめている。
「瑞祥だ……」
 呆然と呟いたホウジツの声を聞きながら、コウライギは不思議な生き物をこの手に捕らえたことを実感していた。


瑞祥…吉兆


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