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「……何しやがる」
 駒場の声が妙にくぐもっていて、それを不思議に思いながらうっすら目を開ける。俺の目の前には何故だか駒場の顔ではなく太宰治全集の第四巻があった。
「駒場会長にも是非文学に触れて欲しいと思いまして」
「物理的にか」
 分厚い本を翳してにっこり微笑むのは始で、駒場が口元を手の甲で拭ってそれを睨んだ。
 俺にキスしようとしたところを本に遮られたんだろうが、いい気味だ。腹を抱えて笑いたいのはやまやまだが、この場でそんなことはできないのが残念だけどな。
「それもまたひとつの方法かなと。『駆込訴へ』はお勧めですから是非」
 そんなことを言いつつ、始がさり気なく俺の腕を引く。それに従って壁と駒場の間から抜け出し、俺はようやく息をついた。
「それじゃ俺たちはこれで」
「……勝手にしろ」
 ふてくされたような顔を背け、駒場が吐き捨てる。
 保健室で付き合えと要求してきたことから人目なんて気にしないものかと思ったが、さすがに本で阻止されては無理に続ける気も起きなかったようだ。奴の気が削がれたのをこれ幸いと、俺たちは図書室を後にした。
「悪いな。助かった」
「予想通りの展開だったからねえ」
 どっと息を吐き出して言うと、始が苦笑した。俺は桜をあまり見ないよう、俯いた上で目を半分閉じた状態で始に手を引かれている。
「さっき駒場にも言ったけど、『駆込訴へ』は晃人にも読んで欲しいなあ。ユダがキリストに向ける屈折した愛情がね……」
 ここしばらく俺の手をひいて連れまわしているせいで始と俺の仲が疑われていることを、こいつは知っているのだろうか。俺としては思いもよらない誤解なんだが、同じ学級の奴にそう訊かれたことがあるのだ。目が物凄く悪いせいだと適当に返答しておいたが。
 始は久しぶりに気を許せる友達ができたと喜んでいたが、俺はどちらかといえば迷惑をかけているばかりではないだろうか。
 俺がつらつらと考えこんでいたからだろう、ふと斜め前を歩いていた始の歩調が緩められた。
「晃人? どうした?」
「いや……」
 そんなにもの言いたげな顔をしていただろうか。俺は始に声をかけられ、何でもないと否定しようと反射的に顔を上げた。
「あ」
 視界に飛び込んでくる、一面の桜。ひらひらと散った花びらが、折しも吹き付けた風に巻かれて舞い上がる。ざあっと桜の木々が揺れて、見渡す限りの美しい花吹雪が。
 くらり、と視界が揺れた。
「うわっ、ちょっと、晃人! 顔伏せて!」
 ぐっと頭を押されて地面を見る。傾きかけた身体を始が全身で支えてくれて、俺はふわふわと漂いはじめた眠気を必死でこらえる。だが、直視してしまった桜の数が多すぎた。
「……すまん……、駄目だ……」
 それだけ言うのがやっとのことで、俺は始にもたれかかったままずるずると崩れ落ちていく。
「晃人! 晃人ってば! まずいな、俺じゃ運べないんだって……晃人?!」
 すまない。もう一度謝ろうとしたが、唇からこぼれたものは吐息だけだ。
 俺はそのままゆったりと意識を手放した。


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