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「晃人、何か伊都さんを怒らせるようなことした?」
「はい?」
 俺の腕を引いたまま歩き続けていた始は、生徒が疎らな廊下の片隅まで来てようやく足を止めた。振り向きざまそう問われて面食らう。
「怒らせる……?」
 確かに伊都に遭遇はしたが、彼は特に怒ったり不愉快になったりはしていなかったように思う。むしろ感情がないというか、表面上は楽しげだったが内心では何も思っていないような感じだった。
「はっきり言うと、伊都さんは晃人を陥れるつもりだと思う」
 全く予想していなかったわけではない。先ほどの伊都の振る舞いから、俺もそれを薄々察していた。
「……何故でしょうか」
 ただ、その理由だけがわからない。
 俺の問いかけに、始は少し俯いて首を振った。
「わからない。……でも、あのひとはちょっと自暴自棄というか、何にも興味が持てないし楽しめない感じがあって、多分わざとトラブルを引き起こす時がある。すごく立ち回りがうまいから本人に何か起こったりはしないけど、前にも幾つか制裁や退学沙汰はあった」
「よく……知ってるんですね」
 間近で伊都の目を見たせいだろうか、始の言葉に俺は納得していた。人生に楽しいことや嬉しいことなんてひとつもないような目をしている癖に、面の皮一枚で笑って見せる伊都は薄気味悪かった。遠くから見たらきっと、人生を謳歌している頭の軽い男にしか思えなかっただろうが、今ではそうは思えない。
 先ほど名乗ったくらいだから、始は伊都とはそこまで深く関わったことがなさそうだ。それがあっさり本性を述べてみせるものだから、不思議でならない。
 首を傾げた俺を見て、始が苦笑した。
「その……、長く見ていたらわかるよ。伊都さんは多分、寂しくて色んな人に手を出したり傷つけたりするタイプの典型なんだ」
 何だその分類。そんな傾向の人間が血液型占い並みに頻繁に居たら嫌なんだが。
「駒場はただのちょっと考えが足らない俺様だから、適当に避けておけばいいはずだ」
 あーわかるわそれ。
「勉強はできても人生経験が足らない印象ですね」
「そうそう! 勉強のできるバカってかんじ!」
 思ったことを率直に言ったら始が噴き出した。俺も釣られて笑い出す。
「さっきのあの、しまった、という顔を見て確信しました」
「あれ絶対なんも考えてなかったって! バカだよなー。いやー晃人みたいにズバッと言う奴なんていなかったからすっきりしたよ」
 笑いすぎて滲んだ涙を指先で拭った始は、しかしすぐに真顔になった。
「でも、晃人。伊都さんはバカじゃない。あのひとには気をつけて。……もしかすると、今日からでも制裁が始まるかもしれない」
「制裁……」
 駒場の親衛隊のことを思い浮かべた俺に向かって、始が首を振った。笑いの影はすっかり消え去り、廊下が静まり返る。
「駒場の親衛隊はかなりまともな方だ。伊都さんの親衛隊は、呼び出しなんて正攻法は使わない。もっと、陰湿だ」
 呟くような声に、俺は先ほど始が言った退学沙汰という言葉を思い出して頷いた。
 昼休みの終わりに教室へ戻った俺たちは、早速その言葉が真実になったことを悟った。ジュースでべちゃべちゃになった教科書で受ける授業は、わりと不愉快だった。


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