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 自慢じゃないが、俺はそこそこ完璧な人間だと思う。実家は裕福だし、勉強はできるし、運動も人並みよりは器用にこなせる。顔は女に囲まれたりたまにストーキングされたりする程度には整っていて、性格もまあ、悪くはないはずだ。欠点はちょっと地図を読むのが苦手なことと、料理がさっぱりできないくらいだが、そのくらいは愛嬌みたいなもんだろ。
 そんな俺にはひとつだけ弱点がある。それも、前世の榊原利晃だった頃からのものではなくて、現在の榊原晃人になってからの弱みが。
 桜が駄目だ。嫌いなわけでも、なんだっけか、トラウマってやつでもない。ただ、思い出すんだ。最期の時を。
 俺が死んだのは、春先の少し暖かい日のことだった。社長業をやっていただけあって俺はでかい総合病院でも一番見晴らしのいい個室を使っていた。癌性の髄膜炎の進行はあっという間で、麻酔で痛みもなくうとうとしながら、俺はずうっと窓越しに見事に咲いた桜を眺めていた。ああ、桜が綺麗だな。そう思いながら眠りについたのが最期だ。
 その時の感覚は生まれ変わった今でも鮮明に覚えていて、桜を見ると眠くなる。実はこれが案外洒落にならない。例えば歩きながら眺めていたらだんだん身体がふらついてきて、最終的には道端に座り込んで眠ってしまう。もっと幼いガキだった頃は、突然眠り込む理由がわからず何度となく病院に運び込まれた。理由が判明してからは、桜の季節にはあまり出歩かないようになった。何しろここは日本だ。春になれば桜なんてそこら中で咲いている。厄介な体質だよ、まったく。
 そして困ったことに、どこへ行くにも一度は屋外に出なければならないこの学院では、俺は満開の桜を全く見ずに生活することができない。だから、ひたすら地面だけを見つめて歩いていた俺が、避けていたはずの駒場にうっかり遭遇しかけたのも、ある意味当然のことだった。
「榊原、ちょっと、こっち来て」
「え、中野さん?」
 教室棟から寮へ戻ろうとしていた俺は、急に腕を引かれて驚いた。ぐいぐいと妙に焦った様子で横道に連れ込まれる。
 中野は強引なたちではない。常にない彼の行動に、反射的に顔を上げた途端、視界に桜が入ってきて少しくらりとする。慌てて視線を地面に落とした。
「中野さん。どうかしたんですか 」
「それは俺の台詞。もう少しで、会長とはち合わせるところだったじゃないか」
「あ、そうだったんですか。ありがとうございます」
 可能な限り桜を見ないように、少しだけ顔を上げて言うと、俺の様子がおかしいことに気づいた中野が顔を覗き込んできた。
「どうしたの。ぼうっとしてるし、もしかして具合でも悪い?」
「いえ、そうではないんですけど……」
 俺が桜を見ると眠くなるなんて、両親と実家の使用人たちと、あと父の秘書しか知らない。いつもは花粉症の薬で眠くなるんだと適当な言い訳だけしているからだ。こんなあからさまな弱点、誰かに悪用されたら困るからな。
 言葉を濁しかけてから、俺は一旦黙って中野を見つめた。俺を見る中野の表情には心配しか見えない。
「……あの、中野さんには言いますけど、ほかのひとには黙っていて貰えますか」
「いいよ」
 即答した中野の表情がますます心配そうなものになる。俺が何か病気でも抱えていると思ったのかもしれない。まあ、ある種の病気ではあるが。
「理由はよくわかりませんが、昔から桜を見ると急激に眠くなる体質なんです。いつどこで眠り込むかわからないので桜を直視できません」
「眠くなる……?」
「はい。眩暈はないんですけど、とにかく眠くてたまらなくなって、場所も選ばずに寝てしまう」
 中野がぱちぱちと何度か瞬きをした。そりゃそうだ。ちょっと聞いたこともない話だろうしな。


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