7


 気持ち悪い。何がって、自分の出した精液で濡れた下着が気持ち悪い。
 和泉の居た準備室から遠ざかり、職員棟の廊下を歩きながら、俺はトイレで拭くことも一度は考えた。だが、それで息子が拭けても下着の換えはないから同じのをまた履くことになる。意味ねえよ。
 どうしようもないのでトイレに立ち寄ることを諦め、ぐちょぐちょする不快感を我慢して寮に戻ることにした。我慢だ。我慢するんだ榊原晃人。
 既にかなり日の傾いてきた中庭に出る。学院の敷地内にはとにかく桜の木が多く、山の上にあるために開花の遅い桜もそろそろ咲き始めていた。
 満開は来週くらいか。しばらく困るな。
 ぼうっと立ち止まって桜を眺めていると、すぐ後ろから足音が聞こえてきた。
「榊原、晃人くん?」
「はい」
 名指しで呼ばれて振り返る。そこには見知らぬ生徒が立っていた。ネクタイは俺と同じ、一年生の赤色。これで制服を着てなかったら美少女と間違えそうなくらい繊細かつ可愛らしい容姿をしているが、全く見覚えがないので同じクラスではないだろう。
「僕は生徒会会長、駒場新さまの親衛隊副隊長をしている、東山(ひがしやま)です」
 フルネームで名乗らねえのかよ。
 とりあえず親衛隊副隊長と名乗られただけで用件はわかった。俺は辟易しながら東山に向かい合う。誤解はさっさと解くに限るからな。
「あの」
「君は駒場さまに近づき、会話し、あまつさえ一緒に登校したと聞き及んでいます」
「いえその、僕は特に駒場……さまに近付こうとしたわけでは」
「君は! 駒場さまの視界に入り! 駒場さまからお声をかけられましたね!」
「……はい」
 怖え。怖えーよこいつ。なんか瞳孔開いてないか。女の子並みに大きな瞳を見開いて淡々と声を大きくしてくるのには、一種異様な迫力がある。
「謝罪はないのですか」
「申し訳ありませんでした」
 怖すぎて反射的に謝った。でも俺悪くなくねえか。最初のきっかけは事故だぞ事故。電子レンジが煙幕張ってきやがったのが悪い。
「本来ならそれだけであなたは制裁の対象となります。しかしながら、あなたは今年入学したばかりの外部生です。青雲学院の文化や不文律について理解していない可能性を考慮し、今回は警告のみとします」
 おお、意外に話が通じるじゃねえか。
 そう思ったのは間違いだったと、俺はすぐに思い知らされた。
「そんなあなたのために、この学院でのルールを説明しましょう」
「あ、いえ、一応聞いて……」
 なるべく温和に聞こえるように言葉を遮るが、途端に東山が両目をカッと見開いた。お前の目それ以上開いたら眼球飛び出すから! ほんと怖いから!
「あなたが! 既にルールを理解しているのなら! 即刻制裁の対象となりますが!」
「すみませんでした解説お願いします」
「まず、この学院において、駒場さまのお立場というものは……」
 俺の顔をガン見したまま、東山がルールとやらの説明を始める。駒場の学院での位置付けに始まり、親衛隊の存在意義や活動内容、一般生徒は親衛隊持ちに対してどのような振る舞いをするべきなのかについて延々語られる。
 長い。とにかくそれが長い。俺の下着の中身はだんだん乾き始めて、ぐちゅぐちゅしてたのがぬちゃぬちゃになりつつある。
「それに加え、駒場さまはこの学院の生徒会会長でいらっしゃいます。そもしも生徒会会長というお立場は……」
 じっと我慢の子であった。榊原利晃だった頃に見たテレビ広告のナレーションが思い出される。もういいから帰りたい。寮より実家に帰りたい。嫁さんに会って癒されたい。
「……以上です。何か質問はありますか」
「いいえありません……」
 ようやく東山の話が終わった。多分三十分以上は話してたな。喉渇かないのか。ていうかガン開きしてた目が乾きそうだ。
「では、あなたの申し開きを聞きましょう」
 え? まじか。意外な一言に驚くが、東山は相変わらず俺を見据えたまま微動だにしない。
 相手の意図はともあれ、せっかく与えられた機会なので、俺は率直に話すことにした。
「実は、僕には人の顔の美醜がよくわからないんです。そもそものきっかけは僕が電子レンジの操作を誤って煙を出してしまったことなんですが、まさか助けに来てくださった方が駒場……さま、だとは知らず、不用意に近づいてしまって申し訳ありませんでした」
「美醜がわからない……」
 よし、もう一押しだ。これで同情に持っていけば制裁は回避できる。
「はい。親衛隊持ちの方とそうでない方の違いがよくわからなくて……ひいっ」
 言い募ろうとした途端、東山が再び目をカッと見開いた。な、何だよ怖えーだろ!
「よくも……よくも、駒場さまのお美しさが理解できないなどと仰いましたね!」
 えええまさか俺こいつの逆鱗に触れた? 触れたのか?
「あの……」
「いいでしょう……あなたには駒場さまの魅力について、よく説明して差し上げます……」
 いらねえよ! 近づくなって言ってる癖に何でそんなこと説明すんだよ! ていうか近づいてきてんのあっちからだからな! 俺ほんと悪くねえんだよ!
 俺は東山の延々終わらない駒場さま講座を聞きながらすっかり夕暮れに染まった空を見上げた。
 面倒くさい。面倒くさすぎる。股間はぬちゃぬちゃ通り越してぱりぱりだ。ああもう。
「……勝手にしやがれ……」
「榊原くん! 聞いていますか!」
「はいいい!」
 全部駒場が悪い!


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